「置かれた場所で咲きなさい」
最近思っていること。
私ここに来る前は1ヶ月高知にいたんだけど、そこも結構な田舎で似たようなことをやっていた。
高知で感じることと島で感じることは違うくて。
その違いを楽しみながら日々を過ごしてる。
同じような環境、状況があるんだけれど。
やっぱり過疎地域と、こうやって若者をたくさん呼び寄せている島とでは条件が違うくて、どちらにも良さがあって。
高知で過ごした期間と同じぐらいの時が島に来て過ぎたんだけれど、感じることがまるで違う。
高知では「自分は意外にも誰かの力にはなれる」と感じた。
一方で自分の「無力さ」しか感じない海士町での日々。「使い物にならない、なんにも力になれない」と感じる。
この違いはなんだろう。
まず状況の違いで言えば、1人で行くか、数人で行くか。
高知へは私1人で行った。いわゆる「過疎地域」と呼ばれる場所。もちろん若者は増えつつあるし、入れ替わりもあるのだけれど、海士町の規模感に比べれば全くで、片手で数えられるほど。そしてこれほど継続的な入れ替わりはない。「若者」の存在がとても大きいと言える。
一方で、海士町は同じく高齢化という状況はありつつも、若者が数十人単位で「継続的」に来るという点でもはや若者が「珍しい存在ではない」のかもしれない。
高知ではおばちゃん達が作るお惣菜屋さんのお手伝いをしていたんだけれど、たった1ヶ月だったけれどそれはそれは重宝されて。
大量のおばちゃん達が働く環境に、若者1人が突入するという「珍しさ」があったんだと思うけれど。私1人 VS 大量のおばちゃんという環境だったから全員の注目が私に集まって希少価値みたいなものが高くて。
すっごく感謝されて。「来てくれてありがとう」って何回も声をかけてもらえて。心から幸せと思えた1ヶ月だった。こんなことでそんなに感謝してもらえるの?と何度も思った。
でも同じことをこの海士でやって果たして同じように感謝されるだろうか?と考える。同じようなことをここでやったとしてもそこまでではないかと思う。それは若者の存在が「珍しくない」ということ。現場における若者の存在は大きいのかもしれないけれど、それほど希少価値は高くないと思う。高い頻度で入れ替わる外から「島留学生/島体験生」としてやってくる多くの若者。私を含む彼ら若者が「何をやっているのかわからない」という声を多く聞く。ある意味この特殊な環境の中で「どうしたら力になれるか」。それがこの島で過ごしてみて感じる感想。元ある資源を、たくさんの仲間たちと一緒にどう有効活用していくか。そしてその中でどれだけ自分が役割や存在意義を見出していくか。それが問われているように感じる。ぐいぐい行かないと周りの環境や人にすぐ飲み込まれて埋もれてしまう。そこにいかなる存在価値を見出せるのか。
そう考えると、海士町での日々は「能動的」にっていうのがキーワードだと思う。高知ではある意味「受動的」でも存在価値を見出せるような、周りの人によって見出してもらえる環境にいたというか。
そしてもう一つ。一緒に来た「同期」の存在。そしてすでに島にいる同年代の「島留学生」の存在。とても刺激的だよなあと思う。
高知では、「町の中にいる自分」。この島では、「島にいる自分」そしてもう一つ内側に、「島体験生の中にいる一員としての自分」という円が一つ増えた気がする。その枠が一つ増えたことで、「他者との関わり」の中で見えてくる自分という要素が一つプラスされた。高知においても同じことが言えるが、町の様子や対人関係の中で自分がどう立ち振る舞うか、他者とどう繋がるかで自己を捉えることができると思う。その上で海士町でのキーワードは圧倒的に「人」、それも地域の方はもちろん、ある意味同じような条件を背負った同じ状況に置かれている同年代の「仲間」の存在がとっても大きいと思う。特に、初めから共に島に来て、同じ期間を共にし、同じ家に住み、お互いを知り合う機会が多い「同期」たち。彼らの存在がいかに私にとって大きな存在となっていることか。
多くの人がサポートしてくれたというのは大前提として、高知では1人で行ったという点で、「個人主義」と言おう。「対町」でもろに町の影響を受けるというイメージ。私個人がいかに町に入っていけるか。それで言ったら地域の方との繋がりがとても大きかった。なんせ周りに同世代がほぼいないから地域の人と関わることなしには生活できなかった。
一方海士町は、それは一緒なんだけれど、さっき言った通り、間に仲間との関わり、「対仲間」という円がプラスされる。「団体主義」とでも言ったらいいのかな(?) 地域の人との関わりなしに、仲間だけと関わって生活しようと思えばできちゃう環境。
町に「入っていく」んだけれど、その街を周りにいる仲間と「共創」していくイメージ。
地域の人と関わるにおいても、生活するにおいても、仕事するにおいても常に団体行動。短期間に個人での動きと団体での動きどちらも体験できているのがとても新鮮で面白い。
ここに来てから常に人といる。良く言えば頼れて相談できる仲間がいつでも側にいてくれて、悪く言えばずっと一緒だから複数人の難しさっていうのもある。
ここに来るまでは私はどちらかというと、1人で時間を過ごすことで心身を回復させるタイプだった。(MBTIで言えば、まさに“I”タイプ)。ここに来て多くの同期達に囲まれ、シェアハウスに住んで、最高のシェアメイトに出会って、個人的に感じている変化は、仲間たちと関わり話すことが私のエネルギー回復に繋がっているということ。
私の性格上、決して元から「内向的」に振り切っていた訳ではなかったんだけれど、今はより外向的に、矢印が傾いてきているのがわかる。より社交的に、明るくなった気がするし、幸福度も爆上がりしている。それは確実に皆と対話することで上がっている幸福感。皆と話し笑い合うことが私のエネルギー回復源となった。
と同時に、「寂しがりや」になった。以前から隠れ寂しがりやだったことには気づいていたんだけど、皆に囲まれる毎日をおくる中で拍車がかかったと思う。誰か居ないとどこに行ったんだろうってすぐ気になるし、仲間が居ないとすぐ不安になる。ずっと一緒に近くに居て欲しい。笑
そう思えるぐらいの温かい仲間達に出会えました。
高知での日々も、海士町での日々もどちらもとっても大切で、どっちも大好き。
比べることでどちらかを否定したい訳ではなくて、2つの異なる立場で色々な体験をさせてもらえているのがありがたいなあと。様々な環境の違いを楽しみながら日々過ごしている。
どんな場所で、どんな環境で、どんな立場に立っても、そこで全力で楽しめる、そして自ら「輝ける」人になりたいなと。
“Bloom where you are planted”
「置かれた場所に咲きなさい」
私のモットーです。
この言葉の意味をひしひしと感じる今日この頃。
この言葉をモットーから卒業できるぐらいになれたらいいな。
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