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本当の「優しさ」とは

「私は本当に人の痛みに寄り添えているのか」
この問いがふと頭に浮かぶ時がある。
それは余計なお世話じゃなかろうか。
自分よがりじゃなかろうか。
本当の意味で心の底からその人の痛みを理解して寄り添うことができるのか。
本当の優しさとはどういうものか。自分の優しさは血の通ったものか。
心から優しい人に出会ったとき、相手から血の通った優しさを感じられた時、感じられれば感じられるほど心が幸福で満たされていく。と同時にいかに自分が小さいか、自分の薄情さに気付かされ、私の優しさは本当の優しさではないことを思い知らされる。
じゃあ本当に優しいってどういうこと、?
本当の意味で相手の痛みを理解して、寄り添うことができることだと私は思う。
自分の利益や損得感情なしに。

心の底から痛みを理解することなんてできない、と思ってしまっている自分もいる。
相手の全てを理解することなんてできない。そんなのこっちから願い下げだと言われる時もあるだろう。
理解なんてできるはずない。できなくて当たり前。そんなことやっても無駄だと罵られるかもしれない。でもだからといって諦めるの、?
理解はできなくとも、「寄り添う」ことはできる。相手の痛みを聞いて寄り添って。そんなことしかしてやれないけど。そんなことだけはしてやれるじゃないか。


「自分がこうしたい、こう思われたいって思えば思うほど人は離れていく」
高知で言われたこの言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
「寄り添ってあげたい」って思えば思うほど人は離れていく、、、?
「こう思われたい」(例えばかっこいいとか優しいとか)って思えば思うほど人は離れていくのは理解できる。だって相手が気にいる行動を意識してしようとしているから。
それって人の痛みを理解したいと思う時も一緒、、、?
「友だちに大きなものを背負ってる子がいて、その子をなんとかしてあげたいって思うけど何もしてやれないからもどかしい」と言った私に、
先生は、
「自然体でいいんだよ。ディスアドバンテージがあるから『不完全』って思うんじゃなくて、ディスアドバンテージがある彼自身を『完全』だと思えばいい。」って言ってくれた。
そっか〜って。そうだよな〜って。無理に特別扱いするのも相手に対して失礼だし。

その理論は十分に理解できた。でも。
自然体でいてあげることの優しさ。同時にその人の痛みを知ってしまったからには何かしてあげたいんだよなって。力になりたいんだよなって。余計なお世話かもしれないけれど。私の領域に入らないでって思う人もいるだろうけど。どんなに微力でも、力になれることなら。私にできることがあるなら。もちろんアドバンテージを持ってるからって幸せじゃないわけじゃないんだけれど。でもそれによって幸福度が削られているのなら。何かしてあげたいって思ってしまうんだよなあ。

もう一つ。同期に言われて心に残っている言葉。
「あなたは自分のことを十分愛せている。僕たちはまず自分のことを愛すことから始まるけど、自分を愛せているから、他人を愛すことから始められるんだよ」って。
自分の心のコップを満たせているから相手のコップを満たすことから始められる。また同時にその子が「あなたは相手を思っているってことを伝え続ければいい、伝え続けるしかない」って言ってくれた。
そうだ、私には相手の心を満たすという使命があった。同時にそれが自分の心を満たすことに、幸せにつながっている。相手に響かないのなら、相手に響くまで伝え続けよう。私が相手を思っているということを。紛れもない事実を。そこで諦めてたまるもんか。私が相手の心を満たすんだから。何十回でも、何百回でも、何千回でも、私が自分で自分の心を満たして、満たせているように、相手に自分の心で、心の言葉を、かけ続けよう。振り向いてなんて贅沢は言いません。ただただ伝えたい。私の想いを。私の心を。私の言葉で。私があなたを思っているということを。私はあなたと話がしたい。

さっきの話に戻します。相手に「こんな風に思われたい」って思えば思うほど人は離れていくという話。私の場合は、「良い人って思われたいとか、相手に好かれたい」。
そう思えば思うほど、自分の本当の心に反して、相手がこうすれば良い風に思われるんだろうなっていう行動をとってしまう。だからその思いを強く持てば持つほど相手は離れていく。自然体で自分の心に火を灯し、燃やし続けることが1番相手に好かれる近道だと。
それを聞いてああ薄々自分は知っていたんだなと。薄々じゃない。気づいてた。だから自分はいつも心にポッと浮かぶそういう欲から目を背けようと必死だった。遠ざけようと努めてた。でも改めて言われて、思い直した。心にもっと自分の火を灯そうと。それから前よりもっと自分の心に素直に生きるようになった。確かに先生の言ってた言葉は本当だなと。ありのままでいる方が相手に思ってもらえてる気がしてる。
だから相手から求めることを辞めた。相手に「求める」のではなく、相手に「与える」側になろうと。与え続ければ、相手から与えられる。与えられることを目的で与えるのではない。あくまでも与えることに「喜び」と「幸せ」を、そして「感謝」を。

ここで一つ問題が。相手から求めることを辞めた。私は期待することを辞めた。=それは信頼していないことになる、?
「期待」と「信頼」は違う。私は相手に「期待していない」。そしてそれに加えて私は今まで相手を「信頼していない」という言葉をよく口にしてきた。人のことを「信じていない」と。信じられないと。決して誰かに裏切られた過去があるとかいうわけではないんだけれど。
でも「信頼」って相手のことを思うことだと思うの。信頼していないのも、期待をしていないのも、全部全部、自分を「傷つけたくない」から。全部自分を「守りたい」から。
期待は自分本意で信頼は相手本意だと思う。期待は自分の都合で相手に望みをかけること、気持ちを上乗せして相手を思うこと、だから期待はしない方が良いと思ってる。でも信頼は、その人のことを「信じてあげる」こと。相手に望みをかけるのではなく、相手のありのままを受け入れること。それが私はできていない。1番したいことなのに。
なぜだろう。確かに期待はしていない。だから周りから見たら幻滅するような行動を相手がとっていたとしても、私は周りほど動揺しない。そもそも期待していないから。相手のことを受け入れている。本当に受け入れられている、?
なのに信頼できていないのはなぜ、?
自分が1番だと思っているから、?
いや、実は信頼できているのかも、?

相手を100信頼して、「あなたならできるよ」って言ってできなかった時の責任が取れない。責任を負いたくない。相手に負わせたくない。
どっちにしてもそれで自分が傷つくのが怖い。
結局自分を守りたいだけ。自分が1番なだけ。
だから「自分のことしか信頼していない」。

自分のことは置いておいて、自分の感情を抜きにして、相手のことを心から「信頼」してあげたいのに。
相手のことを受け止めているつもりではあるけれど、それは信頼していると言えるのか?
それとも気づいていないだけで、相手のことを信頼できているのか?
もしや信頼できていないのは、自分が信頼されるような人ではないから、?
あ〜〜〜〜〜〜難しいなあほんとうに。
自分ができているのかできていないのか。

こうなりたいって思えば思うほど人は離れていくし、でもそう願って意識することしかそうなることはできなくて。色々矛盾。
頭がごっちゃになってしまってる。
はあ〜もうどうしたらいいんだろうううう。
とりあえずありのままを受け入れよう。ありのままはありのまま。でも変えたいんだよね、?変わりたいんだよね、?
え、受け入れていいんだっけ、?????

冷静になれ自分。君ならできる。心に火を灯せ!


信用と信頼?
「信用」裏付けや担保と引き換えに相手を信じること
「信頼」一切の裏付けや担保もなく相手を信じること
私は相手に対して「信頼」がしたい。

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