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StelarcのPing Bodyに見るコンピュータメディアの特異性



オーストラリアのパフォーマンスアーティスト、Stelarcが、1995年に行ったこのパフォーマンスは、のちにメディアアート世界において頻繫に語られる革命的作品だった。

パリ、ヘルシンキ、アムステルダムの会場にいるオーディエンスが、ウェブサイトを通じてルクセンブルク会場にいるStelarcにPing信号(アクセス先にネットワークが通じているかを確かめる電子コマンド)を送る。

その信号を受け取ると、Stelarc自身の体は、computer-interfaced muscle-stimulation system(コンピュータ信号を筋肉運動に変換するシステム)によって、不規則に動き出す。

人間の体がインターネットを操作するのではなく、インターネットの自身が人間の身体運動に影響を及ぼす、初めての試みであった。

(参考:http://www.medienkunstnetz.de/works/ping-body/


これはまるで、士郎正宗氏による傑作SF漫画「攻殻機動隊」に登場する「電脳(脳内にマイクロマシンを注入し、それを神経と接続させることで、外部のコンピュータと自由に通信出来るようにするテクノロジー)」のようだ。Stelarc氏は体中に電極を張り付け、コンピュータ世界を神経系と接続することで、身体という内部世界とコンピュータの外部世界を直列に接続し、相互反応を起こした。彼の行うパフォーマンスは我々が、漫画やアニメの世界で見たそれと完全に一致するだろう。

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また、通信の原初的行動(Ping)と人間の原初的行動(反射)を接続した点も斬新である。

ここでは、データ通信というインビジブルな流れを、ケーブル、電極、神経系を通して、ビジブルな身体運動へと変換している。(鑑賞者の我々はStelarc氏の体の動きによってのみ、コンピュータ上でデータ通信が行われていることを知り得るのだ。)

実体のないデータ通信(=echoコマンドの送信)が、実体のある人間の身体運動として現実世界に投影される様は、コンピュータと人間の「原初」を、同質なものとして捉える役割を果たしている。

一方で、実体という観点で言えば、両者の相違をより一層際立たせる機能も持ち合わせているだろう。それは、兄弟の喧嘩をなだめる親が、彼らを似た者同士だと思うと同時に、二人は決して同じ人間ではないと感じるようなものかもしれない。


これらから、私は以下の二つをコンピュータメディアの特性として感じ取る。

一つは、その潜在性だ。

コンピュータは、人間の創造力を増強すると同時に、それを実現し、表現するポテンシャルを持っている。コンピュータテクノロジーが「電脳」を再現したように、コンピュータによってブーストされた人間のアイデアは、コンピュータ自身の能力で再現されていくのだ。そして驚くべきことに、そのテクノロジーは日々進化を続けている。

「存在そのものが進化を続けるメディア」はこれまでにあっただろうか?だからこそ、コンピュータの可能性は無限大であり、我々は期待と畏怖の狭間に立たされる。

時代は「インターネットを利用する」から「インターネットと共存する」へとシフトしている。それがいつか「インターネットと闘う」または「インターネットに屈する」日へと変わってしまうことを、我々は少しながら憂慮する。SpaceX社およびTesla社のCEO、イーロン・マスク氏は「我々はもはやサイボーグだ」と言った。それは彼が、インターネットを利用する立場であった人間が、インターネットと融合する立場へ移行したということを意味している証拠だろう。



もう一つは、実体のないデータを身体で可視化したという点から、コンピュータメディアがデータの解体と復元を行っているということだ。(それはコンピュータ自体の特性とも言えるが、ここではあくまで「メディア機能としての解体と復元」を指す。)

解体されたデータは0と1のみの数字の羅列であり、それらは人間にとって全く意味の成さない集合体だ。しかし、受信する側のコンピュータは、それを人間の言語に変換することで、データを復元し、人間世界に向けて可視化する。

しかも、コンピュータはその方法でしか人間のメディアとして機能しない不器用さを持っていることが、不思議で少し滑稽とも言える。

ともあれ、我々はデータを毎度解体し復元するようなメディアを他に知らないから、その点でコンピュータのメディアは特異と言える。

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