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灯が揺らぐ時

私は持病がある。だが今は、子供二人を育てねばならない。
最早生きることに忙殺され、何も考えない時間が長かった。
過去の自分はもっと生きることを感じ考えていたようだ。

これから先、いつか迎える最期までにまた立ち返りたいと思い、
殆どそのまま転載することにする。
当時は病棟で働いていた。
10年と少し前の話。


随分と前の或る日、目を覚ますと、私は見たことも無い天井を見上げていた。
口元に生暖かい違和感を感じて手を伸ばすと、不思議な感触と共に、黒っぽい液体が指についた。そして、私の身体からは管が伸びていた。
夢の中にいるような不思議な感覚の中で会話をし、そして、いつの間にか意識は遠くなっていた。

会話をした相手は、救急車を呼んでくれた友人。
数年経ってから経緯を聞いたのだが・・・そのときの状況を私は覚えていない。

ぼんやりと「何で生きているんだろう」と思っていた。

そして彼女から、ある時、あの時必死で助けようとしたんだから必死で生きてくれなくちゃ困るんだ、と言ってもらった。何故そんな事に至ったのかは未だに判らない。そして、事の顛末の殆どは記憶に無い。


そして、少し前の或る日。
目が覚めると、身体が石のようになっていて、自分の身体とは思えないような感覚だった。覚めない夢を見ているかのような不思議な感覚だった。

現実を受け止めるだけの余裕が無く、事実として動かない手足を認めることができない状態だった。そして、動く事を諦めたいような気分と、そのうち動くかもしれないという期待の中で揺らいだ。
そして、動かそうと思い続けることに疲れて何時の間にか眠りに落ちた。
数日の間、その感覚は残り続けたが、徐々に動かせる範囲が広がった。
希望を感じていた。

結局、原因不明のままであるそれは、何時、動けなくなるのかわからない、という貴重な体験として記憶に残っている。

そして、その暫く後、別の箇所の不調で入院する事となり、いよいよ生きるとは何だろうかと考える事になった。同じ病棟には、癌治療真っ只中の人が沢山。



身近な人の死に出会ったり、ギリギリで助かる姿に出会ったこともある。

自分の記憶にある最初の別れは、7歳の時。癌で苦しみ、食べることもできない状態であったのに、我が家にいることを選んでくれた人だった。いよいよ良くない状態になった時、病院へと移り、それきり会う事ができなくなった。
私にとっては母のようで祖母のような人だった。私たちにとても良くしてくれたけど、彼女の家族はそれを良く思っていなかったようで、お葬式もお墓参りも行けなかった。
そして、その後もお別れの機会だけは沢山訪れた。

逆に、ギリギリで助かったある友人は、生きていて動ける事の感動を私に語ってくれた。そして、その人がスパゲッティ状態から自立歩行するまでの姿は、私の心に今も焼き付いている。
それでもリハビリと障害を抱え、私は悩みを聞いてやる事以外何もできず歯痒かった。



現在の私の日常の風景には、動く事がままならない人や、私に比べたら格段に残り時間が少なくなった人がいる。

彼等が生きる事に執着を見せてくれるとき「何とか手伝いたい」という力が出てきて、それは私の生活に希望を与えてくれる。

だけれど、同時に、逆の気持ちを伝えられた時は上手く言葉が出てきそうになくて、思っていることとは別の言葉が出てくることもある。
自分で動く事ができない不自由さも理解できるし、その状態の苦痛も僅かながら想像できる。


命の灯は、なくなってしまったら、当人にとってはそれっきり、で
僅かの可能性でもあるならば希望を抱いて欲しい、とは、周囲にいる人にとって、ごく当たり前の感情だと思う。
ただ、希望を抱くことが難しい状態というのも確かにあって、そんな時に相応しい行動とは何だろうか、と、日々そんな事を考えている。
できれば希望を抱けるような手助けが出来たらいいと思う。

ただ、それは難しいし、人生の大先輩にそれをするのはとても難しいな、と感じている。


少しの感覚や認識でも残っているうちは何かしらの可能性を持っているのだ、と、そんな事を感じて欲しいと思いながら、もっといいポジションで手を伸べられたら、と。

もし、残念なことに彼等とお別れをすることがあれば、その時は彼等から受け取ったものを大事に持って生きていこう。
そして、そんな瞬間に出会うことがあれば全力で見送ってやろう。


そんな事を考えながら、日々生きることを思い、少しでも笑えるように、と願い

そして今日も自分が目覚めた事に感謝をする。

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