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『HELLO WORLD』考察にもならない気になること

見出し画像出典:HELLO WORLD(公式サイト)

野崎まどの原作小説読了後に視聴した。
やはり気になることがあったのでつらつらと書いていく。

ネタバレしかないので未視聴の方は読まないようにしてほしい

省略されたセリフのこと

好きな小説について堅書直美が語るシーン。
自分にはすごく好きなセリフがあった。
尺の都合だろうが省略されてしまっている。

『SFのFはフィクションですけど、このSのサイエンスが、現実とつながってる』堅書直美

初めて原作小説を読んだとき以来、このセリフがずっと心に残っている。
空想の世界でありつつもどうにかこうにかつじつまを合わせて現実の世界につなげる。それが”SF”。野崎まどにとってのSFなのではないか、と、いかんともしがたい納得感があった。
野崎まどにとってはカットしてもいい程度のセリフだったのかもしれないが、自分には大好きなセリフなので至極残念だった

キスしないでほしい

雷が一行瑠璃にあたり脳死となってしまうのを防げたことを喜び、堅書直美が思わず抱き着いたあと気まずくなり離れ、そのあとにキスをしようかという展開になる。原作では雷を防げたことをカタガキナオミと喜びを分とうという心理描写があったため、キスをする流れになるのにはどうしても違和感があった。
演出的においしいのかもしれないがやめてほしかった。

主人公のこと

主人公は堅書直美であり、10年後のカタガキナオミであり、一行瑠璃でもある。堅書直美ひとりだけが主人公ではない。
原作小説においては終盤にさしかかかるころより堅書直美とカタガキナオミが目まぐるしく入れ替わり、どちらに感情移入しても少ししんどい状態となるわけだが、最終的にはどんでん返しがあり主人公が一行瑠璃で終わる。
主人公が入れ替わることで、自分をエキストラであると表した堅書直美はエキストラではないぞと何度も何度もダメ押ししていくようなくどさが映画のほうでは減っており、主人公はあくまでも堅書直美ひとりなのだと感じさせられる演出になっていた。

堅書直美のこと

自分の椅子を使うクラスメイトに声もかけられず流れで図書委員になってしまうような流されやすいせいかくでありながらも、SF小説を好み、小説の主人公にあこがれている。
自分はエキストラだと称しつつも変わろうと自己啓発本を購入したり、カタガキナオミの協力による恋人づくりに尽力したり、グッドデザイン(神の手)の自主トレーニングをしたりと変わるための行動を続けている。
そして、次第に変わり、自分で選んだ思いきりのある行動に出られるようになっている。
この少年は物語を通じて大きく成長しているのだ。
そして変わり続けているとカタガキナオミにたどり着いてしまうわけだが、無限に増殖する世界となったアルタラにおいて物語の続きがあるとしたらきっとカタガキナオミにはならなかっただろう。

カタガキナオミのこと

カタガキナオミは10年後の堅書直美である。
一行瑠璃をはじめて選んだひと、幸せになってほしい、笑顔が見たい、とひどく執着している。
データ上とはいえ過去の自分を利用し一行瑠璃を奪うことに、やや罪悪感を覚えてはいるものの、けしてやめようとはせず、アルカラ内に入るために半身麻痺になっても人生をかけてあきらめず試行錯誤し続けている。
別の要因で偶然にも脳死状態になったカタガキナオミを洗脳し、自分に好意を抱き行動していたと思わせていたのではないかという、一行瑠璃の陰謀説も一瞬頭をよぎるほどだ。
失った恋人を取り戻すためとはいえ簡単にできることではない。
堅書直美から変わり続けてカタガキナオミになったとはいえ、なぜここまでできるのかわからない。

一行瑠璃のこと

一行瑠璃は冒険小説を好む。容姿はよいが芯が強く冷たい印象を受けることもある。機械の操作と高いところが苦手で理想の自分であろうとすることを裏切らない。理解力が高すぎるし、堅書直美に好意を抱くポイントがいまいちわからなかった。自分と結ばれ、救い、幸せにしようと奮闘する姿に冒険を感じたのだろうか…

『険しきに挑み、あきらめず、最後までやり遂げる姿にあこがれます。私もそう生きたい。そう在りたいと思うんです。』一行瑠璃

烏のこと

映画においては烏の首の部分に”何か”を測定しているゲージのようなものが表示されている。好感度を表すゲージなのではないかというミスリードを誘う素敵な要素であり、視覚的に状況の進行がわかりやすくなっている。そして烏がかわいい。
3本足のヤタガラスへの個人的な思い込みで、原作を読んでいた時は神話に登場する神秘的な生き物としてのイメージが強かったため映画の初登場時の烏に驚いてしまった。
この烏について、視聴者の想像に任せたかのように伏線を随所にちりばめるだけで詳しく言及してはいなかったが、10年後の一行瑠璃だ。
烏を通じて目覚めないカタガキナオミの意識を同調させる手助けをしていたのだろう。

勘解由小路三鈴のこと

勘解由小路三鈴はいかにも主人公のような要素があり、序盤は堅書直美からみて主人公のように描かれてはいたものの、ヒロインでも当て馬でも、一行瑠璃の友人ですらなく、あくまでも堅書直美と一行瑠璃の仲を応援するだけのサブキャラのような存在である。
この作品においての勘解由小路三鈴はあくまでもエキストラ的な存在なのだ。他人が主人公にみえても主人公は自分自身なのだということを表す象徴的な存在のように思える。

タイトル回収のこと

原作小説内では地の文にて『世界は、開闢した。』と表現されているが、映画内においては、千古教授が自動修復システムを止めアルタラ内で情報が無限に増幅することを開闢である、ビックバンであると表現している。
アルタラを超えた無限の新しい世界が生まれるということだ。

『それを日本語でね、開闢っていうんだ』千古恒久

そして堅書直美にとっても一行瑠璃と歩み始める新しい世界となる。これまでの一行瑠璃との歩みはカタガキナオミの最強ノートの回答をのぞき見した100%の新しさはない世界であったが、これからはカタガキナオミが垣間見たことのない、真っ白な状態から始まるのだ。

愛が重い

物語の展開の速さにより違和感を覚えていなかったが、ふりかえると堅書直美も一行瑠璃も愛が重すぎるのではないだろうか。
3か月ほどの思い出しかなく、初デートも完遂されずに終わってしまった恋人との関係を取り戻すために人生をかけて、肉体の損傷をいとわず懸命に試みを続けることを誰も不思議に思っていない。脳死のまま10年生かすことにも言及がない。
そういう物語だとはわかっているものの、過ごした時間・進捗状況をみると、どうしてもやりすぎなのではないかと思ってしまう。

結局、好き

動きに違和感がある部分がある、序盤の表情が雑に感じる、演出色が気持ち悪い、京都が舞台なのに京都らしさがあまりない、京都の方言はしゃべらないのか、自動修復システムは何故狐面なのか、夢落ちと勘違いしていいのかなど、気になるところは多々あるが、駆け抜けていく驚きと追い付かない考察に惑わされるのが本当に楽しかった。

現実と記録データを区別することはできない。真偽を問うのは無意味だ。とカタガキナオミが語るように、考えるのは無意味なのかもしれない。

細かいところにあえて目をつむることでより楽しめ、見ている人を裏切るような展開を描いていく野崎まどが本当に大好物なのである。

またこういう作品を作ってほしい。

ここまで読まれた方、お疲れさまでした。

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