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竹田市と中国でのキリスト教

江戸時代になり禁教令が出されてもなお布教が行われた竹田市と、中国ではキリスト教がどのように扱われてきたのかを調べました。

目次
1.日本のキリスト教の歴史
2.どうして竹田市で布教されたのか
3.竹田市のキリスト教建造物
4.中国でのキリスト教
5.まとめ

1.日本のキリスト教の歴史

1549 フランシスコ・ザビエル鹿児島に到着
1551 天皇に面会に行くも京は荒れており面会できず
1563 各地でキリシタン大名が出現(結城・高山・清原 等)
1578 大友宗麟、受洗
1587 豊臣秀吉による「伴天連追放令」
1612 徳川家康による「キリシタン禁教令」(幕府の直轄地のみ)
1614 キリシタン禁教令が全国に
1622 「元和の大殉教」 長崎でキリスト教徒55名が処刑 日本の歴史上最
            も多くの信徒が同時に処刑された
1637 島原の乱
1868 明治新政府は五榜の掲示でキリシタン禁制を徹底
1873 キリシタン禁制の高札撤去(禁教の終了)

豊臣秀吉の伴天連追放令から明治時代までの3世紀近くもの間キリスト教は禁教されており多くの死者が出ました。死と隣り合わせでもなお、隠れてまでなぜキリスト教を信仰したのかについて調べました。

キリスト教が伝来した時代、日本は各地で領地争いが起きる戦乱の世でした。そのなかで、仏教は信徒からお金を集め払えないもののお葬式は行いませんでした。一方、キリスト教はすべての人を平等に接し貧しい人にも施しを行う教えを説いていたため貧しい農民たちはキリスト教を信仰しました。

担当:たかみ  F.R  kotaro14

2.どうして竹田市で布教されたのか

今回私たちが調査を行った竹田市は日本のキリスト教8大布教地となっています。ではなぜ、海にも面していないこの竹田市が布教の地として選ばれたのでしょうか。

キリシタンロード1

                         引用:google map
大分と長崎を結ぶ道をキリシタンロードと言います。その中継地点に竹田市は存在します。ここ竹田市には「長湯温泉」という温泉があり、温泉には多くの効能があるため、ここ長湯温泉で多くの信者のケガや病気を治すのに使っていたといわれています。また、宣教師は爆弾などの火薬を必要とするものを伝来させており、ここ竹田市には久住連山といわれる硫黄山が存在し、黒色火薬をとることができます。また、この黒色火薬の製造に必須であった硝石は非常に貴重なもので、この硝石を作っていたのが竹田市を支配する岡藩であり、久住方式として有名でした。そのため、多くの宣教師が集まり、それとともに多くのキリシタンが存在しました。

担当:たかみ  F.R  kotaro14

3.竹田市のキリスト教建造物

私たちは竹田市で洞窟礼拝堂と九戸稲荷の調査を行いました。

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この写真は、藩内でも有力な家臣の敷地内に人工的に作られた洞窟礼拝堂です。入り口は中央の大きな扉から宣教師が出入りし、下の左右の穴から男性と女性と別れて出入りしていたといわれています。出入口は西側を向いており、これはローマの方角を向いているといわれています。中には、15人ほど入ることができ祈りを捧げるための十字架が置かれていました。

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続いて、九戸稲荷に向かいましたが上るための階段が草木でおおわれており近くで見ることはできませんでした。しかし、遠くから洞穴を見ることができそこに稲荷があるのではないかと思いました。

担当:たかみ  F.R  kotaro14

3.中国でのキリスト教

歴史
1807 イギリスからモリソンという宣教師が来中し、キリスト教が伝来
1840 アヘン戦争後、不平等条約の特権により東南海岸から中部まで布教し    
   た。これらの活動は、不平等条約により守られていた。
1913 「武漢キリスト教の青年会」が建てられた。しかし、これは教会で
   はなくアメリカ海軍基地だったらしく、どのような活動をしていたの
   かはわからない。
1949 この時点で約70万人の信者が存在した
1950 呉耀宗による「三自運動」(自分を管理する、自分を養う、自分が伝
   播する)を行った。布教活動は国の法律を守るという前提で独立的か
   つ自主的に活動できた。
1958 様々な教会が「連合礼拝」を行った。それにより「ポストセクト時
   期」に入った。

中国のキリスト教の歴史について調べてみると、中国のキリスト教信者達はあまり自分たちの信仰に関心がないようにみられる。

担当:朱一尘

中国のキリスト教建造物
漢口栄光堂

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楊格非は1861年に武漢に布教に来ました。1880年、武漢漢口のイギリス商人の指示を得て、後花楼一帯で大きな敷地を購入し、300人収容できる礼拝堂を建てました。宣教活動センターとして「花楼総堂」と名付けられた。

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1931年に楊格非の百歳の誕生日及び布教70周年を記念して、中国のクリスチャンが寄付を行い礼拝堂の工事を行いました。総工費5万3千元(90万6千円)。「格非堂」と名付けられた。

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格非堂は都心の近くに位置し、設備も先進的です。千人収容できる礼拝堂のほかに、図書室、ビリヤード場、花園、大型ピアノ、オルガンなどが置かれた。日曜日に礼拝と様々な宗教儀式が行われた他に、遊芸会、コンサート、コンパ、卓球試合、音楽教室など様々なイベントが開催されました。1930年代に最盛期を迎えました。

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1951年に栄光堂と改名され、武漢地区初の合同礼拝堂となりました。文化大革命の間、ほかの教会と同様に活動を停止しました。1980年11月30日に湖北省で最初に礼拝が再開されました。
礼拝堂は総建築面積1191平方メートル、一階には講堂・応接室・事務室などがあり、二階には聖堂があり、三階には観礼楼があります。

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礼拝堂の歴史は長く、建築様式が特別なため、1993年に武漢市人民政府により「優秀歴史建築」に指定されました。2006年には政府の援助と信徒の寄付で礼拝堂の全面修復を行いました。

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現在もなお1500人以上の信徒が礼拝を行っており、結婚式などにも使われています。

担当:せいか

5.まとめ

これまで学んだように歴史を振り返ると、キリスト教の弾圧や差別などが数多くありました。現在でも部落差別や人種差別など宗教以外にも様々な差別が世界中に残っています。人はそれぞれ進行する宗教や価値観が違うためどうしてもそれらを守るために差別や対立、迫害が起こってしまいます。これらを完全になくすことは出来ないかもしれませんが最小限に抑えるためには、一人一人の考え方が重要にになります。例えば視野を広げて相手の意見を素直に受け入れるようになること、自分と違うからと言って馬鹿にしたりするのではなく相手のことを認めお互いに尊重しあうという考え方を持って発言や行動をすることが大切だと考えます。

There were many discrimination and religious persecution. Even now, some people discriminate communities and be racism in the world because they wont to protect their community so they are happened. We can't abolish them but we can keep to a minimum if you open vision, accept another opinion and never making fun of them.  

担当:朱一尘 せいか たかみ F.R kotaro14

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