帆立が東大院生になるまで
まえがき
思ったより書いたnoteが伸びてしまって、焦っている。1人の大学院生が、就活と授業を両立させるためのタスク管理法、ぐらいのつもりで書いたのにめちゃくちゃ読まれてしまった。
私は引用ツイートをつけられるのが嫌いで、基本ばしばしブロックするため今回はマシュマロで感想を募集した。
マシュマロ
マシュマロありがとうございます
マシュマロありがとうございます。
私は「生まれながらにして努力家で天才」ではないです。むしろ天才じゃないからこそ、色々努力すべきだと思っていました。
私も腐ってどうしようもない日々があったから
私は普通の地方の高校生でした。進学意欲は高い高校だったけど、特段優れた実績があるわけでもない普通の学校の、少々負けず嫌いをこじらせた高校生でした。
私は高校生のとき名古屋大学を目指していました。私が中学生のとき名古屋大学で日本人のノーベル賞受賞があったからです。
また、文理選択は理系を選びました。 国語と化学が得意だったので文理選択を悩んでいると当時の担任に「女の子は数3が出来ないので理系はやめなさい」と言われたのを、腸が煮えくり返る思いで理系に丸をつけて提出しました。
そして、「女の子でも数3が出来ることを証明してやりたい」「理系の研究者になればそれが証明出来るだろう」という、なかば社会への挑戦のようなつもりで進路希望に「研究者」と書いた記憶があります。
以下、回想です。
6年間、ずっと目指していた大学だった。そこに入ることが私の中高時代の目標で、そうでなければ価値がないぐらいに考えていた。 名古屋大学に入って研究者になるのが私の人生のすべてでそれ以外は要らない、と本気で思っていた。
全てが崩れたのが2020年のセンター試験の日だった。1日目の相当な手応えがあったわたしは、2日目の数学で少し焦ってしまい、気持ちを最後まで立て直せないまま試験を終えてしまった。
1日目の結果(文系科目)が確か86%で、2日目を大失敗したために得点率すら出さず、トータルで75%ほど。たぶん理系科目は7割切ったんだろうな。旧帝大志望者はこの数字がどれほど絶望的か分かるはず。
模試でも見たことない数字を見て、まだ受けてもいない2次試験の結果を悟った私は絶望した。私は元々2次力に不安があったし、センター試験を伴う推薦を受けようと思っていた。そのため、センター試験で得点が取れないというのはその推薦すら出せないことを意味する。終わったその日は眠れなかった。
次の日、月曜のクラスで行う採点は体を引きずるようにして学校に行った。担任と面談して「推薦は無理そうだね」と言われたとき、高校生ながら最後のプライドで無表情で頷いたのを覚えている。心の中で絶叫していた。
「心配していたけど、落ち着いていて安心した」と担任に言われたけど、その言葉が悔しかった。
落ち着いているわけが無いだろ。家に帰って号泣した。ようやく泣けた。やっぱり私には無理だったんだ。
今なら、完璧主義な私のことを心配していたのだろうと思うけど、当時はそうは思えなかった。
センターの次の日は単位の関係上休むと留年になってしまうので、何としても来いと言われていた。
親に言って、センターの次の次の日、私は人生で初めて学校をサボった。1日ずっと泣いて、映画を何本か見て、また泣いて、頭が痛かった。
そこで私は燃え尽きてしまって、本当に受験がどうでも良くなってしまって、私は最後まで頑張ることをしなかった。
これが私のなかの人生初にして最大の挫折だった。
人生初にして最大の挫折
「名古屋大学で研究者になる」という夢が破れた私は全てがどうでも良くなり、適当に受けた大学に進学した。「女子は浪人しても辛いだけ」みたいな言説が平気で言われていたような環境だったし親にも浪人は禁止されていたからだ。
辛かった。ずっと浮かない顔で授業を受ける私に「その程度の実力だったのだから諦めろ」「結局受からなかったのだから見込みがなかった」などと声をかけてきた親のことは未だに許せていない。
毎日Googleで「受験 失敗」などと検索をかけて引っかる記事を読み、鬱々とする日々だった。当然大学の授業にも出なかったし、大学1年のGPAは1.02/4.0、落とした単位は1年で10単位以上だった。必修も4単位ぐらい落とした。バイトばっかりしていた。
このときは大学をやめようと思っていて、ちょうど「ハコヅメ」という警察もののマンガにハマったこともあり警察官いいな、と本気で思っていた(今思うととんでもなさすぎるし警察を舐め腐っている)
しかしなにかの拍子で編入学を知り、どこか編入できないかと志望先を探すことが始まった。調べたところ、名古屋大学でも数は少ないものの編入学を認めていることをそこで知った。
筑波大学は編入学の受け入れを積極的に行うことで有名で、私は名古屋大学の滑り止めのつもりで調べていた。もともとメディア創成学類を受けようとしていたが、ペーパーテストがないお隣の学類、知識情報・図書館学類にたどり着く。
何気なく見た学類パンフレットで、面白そうな研究室を見つけた。自分が感じた社会課題や問題提起のような部分を、このようなアプローチで解決出来るのか。なんて面白そうな学問なんだろう。
そこでようやくまた、「私は研究者になりたかったんだ」という気持ちを思い出した。
そこからは死にものぐるいで勉強した。編入への勉強も、大学のテストも、全部本気で取り組んだ。出来ることは全部やり、大学1年の冬にはオンラインの学会でプレゼンしたり、勉強会にも参加した。地方創生のイベントにも出て、色々見聞を深めた。論文を読み始めたのもこの頃。
編入試験を受ける頃には大学が好きになっていて、研究者になりたいという気持ちが復活していたのだった。
筑波大に合格して数日後のこと、母がこんなことを言っていた。
「あんたがこの前の入試で話してた社会問題について、全く同じこと話してる東大の教授がいるみたいだよ」
「へー、筑波受ける前だったら東大考えてたかもね笑」
そのときは笑って流していた(というより筑波に受かった直後で嬉しくて仕方なかったため、全く気に止めていなかった)その東大の教授の記事。
私はその人の存在を、およそ2年後に思い出すこととなる。
ここまで読んでくださった勘のいい読者諸君ならきっと気づいていただけるはずだ。
後半へ続く