見出し画像

世の中は良くも悪くも個人に対して無関心なんだと思った話。

何日か前の東京新聞の一面でこんなものがあった。

9年前に他界した65歳のホームレス、小山さん(女性)が残した30冊ほどの手記を、これまたある人たちが本にしようと集まったという記事。

手記の内容はザックリ言うとDVに耐えられず逃げ出したことや、日々の生活の中で感じたこと、思ったことをつらつらと書き留めた日記のようなものらしい。

小山さん自身は行政の保護を受けず周りのホームレス仲間が色々と世話をしていたそうで、なぜ、こんな記事になったかは、読んでみればわかるので割愛するけど、普段外を歩いていてホームレスを見かけても、特に関心を持つことは無いし、おそらく向こうもこちら側に関心を持ってないと思う。

小山さんにしても、たまたま、ホームレス仲間だった一人の女性がこのノートに興味を示したから本に纏めるために人が集まっただけのことで、遺品を全て捨ててしまっていたら、誰も小山さんの人生に触れることはなかったはずだし、おそらく、小山さん本人も誰かに知ってもらいたくて書き綴っていた訳でもないと思う。

自分が生きていくこと以外に関心を持ってないんだと感じた。

かく言う自分も、20代の終わり頃にホームレスのような生活をしていたことがあった。

何もかも嫌になって、全てを捨てて家を出て、いつでも死ねるように100均で包丁を買って、地元をあてどなく歩き回った。

しかし、自分が彼らと違ったのは、世の中との繋がりを断てなかったこと。

家電量販店などで設置されてるパソコンでSNSにログインして、それまで繋がっていた人たちと会話をし、最終的に仲良くしていた人が「ウチに来い」と言って、彼の転勤が決まるまでの3~4ヶ月ほどお世話になり、普通の生活を取り戻した。

結局、彼らのように世の中との繋がりを断って、自分以外に関心を持たず生きていくというのは無理だったんだろうなと感じる。

風呂にも入れず、ベンチに腰かけて行き交う人を眺め、何か食すわけでもなく、死なない程度に公園で水を飲む。

そんな生活をしながらも、仕事をして飲みに行って、食べたいものを食べていた頃に戻りたいとどこかで思っていたんだろうなと。

ホームレスの中にも最初はそうだった人はいると思う。特に高齢であればあるほど人と繋がりを維持する手段は限られていて、一度繋がりを無くしてしまうと取り戻す方法がないケースが多くて、本人が望まない方向に落ちていってしまったような人。

でも、世の中はそんな人には目もくれずに社会の歯車を回し続けて日々進歩し、歯車から外れた人間はそこいらに落ちているネジのように蹴飛ばされて路上の隅に転がり、排水溝に沈み、誰にも気付かれることなく錆びていく。

錆びてしまうと立ち直れないだろう。

立ち直れなくなると、自分を生かすことだけに集中するだろう。

憶測でしかないけど、そうなると普通に生きていた頃の気力とか、夢とか、全部どうでもよくなるんじゃないだろうか。

自ら全てを断った人も中にはいるのだろうけど。

望んでネジになって錆びていくことを受け入れて、そんな人にとって、無関心な世の中というのは元の生活が不幸であればあるほど居心地がいいものなのかもしれない。

関わらないから関わらないで欲しい。そんな印象を受ける。これもまた憶測だけど、冒頭の小山さんもそんな人だったんじゃないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?