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市政ニュース映画から見る人々ー川崎市民の”健康”ー

はじめに

 1924年に誕生した神奈川県・川崎市は、2024年に市制100周年に迎える。100周年に向けて、過去の姿や人々の生活、そして今も残る姿を広く伝え、川崎の未来を考えていく事を目的に、市が保有する映像を「川崎市映像アーカイブ」にて公開している。
 本記事では、昭和30年代前半から昭和40年代中頃、平成初期までの映像をもとに、川崎市の”人々”の健康をテーマに川崎市が辿ってきた都市化のプロセスを見ていくに

1.川崎市の人口

 川崎市の平成27年度国勢調査結果( 人口速報集計 )によると、昭和になると重化学工業の工場が次々に建設され、労働力の需要が高まったことで、昭和15 年の国勢調査では 30 万人を超え、前回調査から57.0%増と、全 20 回行われた国勢調査の中で最も高い増加率を示した一方で、第二次世界大戦の勃発により空爆や疎開、兵役などのため人口が減少し、終戦後の昭和 22 年には、 25 万人にまで大幅に減少した。しかし、高度経済成長期には、5 年間で 10 万人を超える勢いで増加していき、昭和 40 年には 85 万人となり、昭和 50 年調査では 100 万人に到達した。増加率がマイナスとなったのは、終戦直後の国勢調査のみであると述べられており、グラフからも読み取ることができる。

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 また、年齢別に人口を見ると、65歳以上の高齢者の割合は徐々に伸びており、75歳以上の高齢者の割合が平成30年には10%を上回ったが、全国に比べるとその割合は低く、また、生産年齢人口に関しては、全国値に比べて約7%高いことが分かる。

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 日本の中でも有数の貿易港と工業地帯が存在する川崎では、戦後の高度経済成長期とバブル経済による労働力の需要により多くの人が転入し、現在に至っても川崎市に住み移る人々は大勢いるのだ。

▽図1・表1引用元

2.川崎公害とは

 人々を川崎に呼び寄せた京浜工業地帯は、労働力が生まれると引き換えにに大気汚染や水質汚濁などの環境問題を多く引き起こした。その一つに、”川崎公害(川崎喘息)”がある。これは、戦後の高度経済成長により成長を続けた日本各地の工業地域では、四日市ぜんそくやイタイイタイ病、新潟二股病などに並び、川崎市で発生した公害である。川崎市では、市民の安全な暮らしを取り戻すべく、努力を続け、きれいな空気を取り戻した。

▽令和3年の川崎市の空ー筆者撮影

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3.としよりの日?敬老の日?

 「川崎市映像アーカイブ」の中で、たびたび9月頃になると『としよりの日』という題の映像記録が残っている。しかし、ある時を境に『としよりの日』が無くなり、代わりに、同季節に『敬老の日』という題の映像が残っていることに気が付いた。筆者は、現在の祝日でもある『敬老の日』は、過去に異なる名前であったのではないかと予想をたて、調べてみると内閣府ホームページに以下のようなことが書かれていた。

 昭和22年(1947年)に兵庫県多可郡野間谷村で行われた敬老行事がきっかけとなり、昭和25年(1950年)、9月15日を「としよりの日」としようとする敬老・福祉の県民運動が開始されました。
 昭和26年(1951年)、中央社会福祉協議会(現:全社協)が全国運動を提唱。9月15日から21日までの1週間を運動週間として、「老人を敬い慰め、励ますとともに、老人福祉に対する国民的理解を促進し、老人自身もまたその立場を自覚し、新しい社会建設に参加する」ことをうたって様々な活動が推進されました。
 「としよりの日」は後に「老人の日」を経て昭和41年(1966年)に国民の祝日「敬老の日」へと発展しました。そして、平成13年(2001年)の老人福祉法の改正により、9月15日が「老人の日」、同月21日までの1週間が「老人週間」と定められました。
 なお、「国民の祝日に関する法律」の改正により、平成15年(2003年)から「敬老の日」が9月の第3月曜日となりました。

 予想通り、『としよりの日』は『敬老の日』の前身であった。内閣府によると、『老人の日』を経て昭和41年から『敬老の日』になったと言及されているが、「川崎市映像アーカイブ」では、昭和40年の映像の題は『としよりの日』となっており、『老人の日』と呼ばれていた時期を確認することはできなかった。

 また、発祥の地である兵庫県多可町のホームページには、『としよりの日』ができた経緯を以下のように述べている。

昭和22年当時は戦後の混乱が続く時期で、子どもたちを戦地に送った親たちは、本当に精神的に疲れていたのです。わたしは当時、福祉政策に力を入れていて、そんな親たちに少しでも報いてあげなければいけないと思いま昭和。そこで「養老の滝」の伝説にヒントを得て、9月15日を「としよりの日」とし、55歳以上の人を対象に敬老会を催すことにしました。

 『敬老の日』は、戦争を経験したことで生まれた日であり、社会をつくるために多年にわたり汗を流してきた労働者たちを労わる日であるという意義を持っているのだ。

https://web.town.taka.lg.jp/915/


▽昭和33年の『としよりの日』の様子ー川崎市映像アーカイブより

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▽昭和35年の『としよりの日』の様子ー川崎市映像アーカイブより

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▽昭和45年の『敬老の日』の様子ー川崎市映像アーカイブより

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▽平成28年の『敬老の日』の様子ーANNnewsCHより

▽平成30年の『敬老の日』の様子ーTOKYO MX NEWSより

▽令和2年の『敬老の日』の様子ーテレ東BIZより


 昭和時代は、お年寄りの会合やお年寄りを報告やしたイベントの紹介、そして、必ず市長が市内の最高年齢者の元へ訪問している様子が印象的だが、平成になると、高齢者の人口の推計についての報告について触れている部分が多く、個人的に少子高齢化社会の問題を遠回しに提起しているように感じた。また、動物の長寿についても触れていることが多く、意義が変わっているようにも見える。(『敬老の日』は祝日なので、動物園側からすると3世代で来園してもらえるチャンスであり、これらのようなイベントを準備したのであろう。)

4.昭和と平成の医療

 最後に、多数の市民を抱える川崎市の医療施設について取り上げたニュース映像を見ていこう。

▽川崎病院に新病棟 【昭和37年5月22日】

 昭和37年に放送された川崎病院の新病棟増設についての映像では、医療器具や温度調節、室内環境などの設備について優れていることをアピールしている。

▽市立川崎病院 病棟・中央診療棟 完成 【平成10年12月15日】

 こちらは、平成10年の川崎病院の様子を残した映像である。昭和37年に比べて、映像がカラー化したのはともかく、”優れた設備”の、今度は利便性や効率性に着目している。コンピューター完備や作業の自動化をはじめとした技術の進展により、より質の良いものへと明らかに医療の分野においても進化を遂げている。

▽すすむガン検診 【昭和41年8月23日】、

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 また、これは市民を対象にした無料のがん検診の様子の一部であるが、注意書きに部分におそらく”ブラジャーとコルセットははずす”といった旨が書かれているのだろうが、現在は、”金具のついていない下着”と書かれていることが多く、ブラジャー・コルセットと特定的に描かれていることから、この時代の女性たちは、女性らしさを追求して矯正下着を身に付けていることが頻繁にあったと分かる。世間が女性に対する、あるいは女性たちが持つ身体観や西洋の影響の大きさも見えてきた。

おわりに

 川崎市は、戦後復興に成功し、高度経済成長によって多くの労働者たちを引き寄せた。しかし、その副作用として公害問題や環境問題も抱えていた。川崎市の努力により、市民の安全な暮らしが取り戻され、現在もその人口は増加し続けている。医療も市民のニーズと時代に合わせて発達している。また、映像アーカイブの記録が豊富なこともあり、『敬老の日』の由良を知るきっかけにもなった。映像に残されていたお年寄りたちの、社会にかかわりを持とうと努力する姿や、複数のコミュニティーの様子をみて、川崎市は、市の努力と市民のつながりの上で成り立ってきたことが良く分かった。



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