ボブ・ディラン Jokerman

 一九六五年の春夏には、彼ははなやかなポップ・ミュージシャンになっていて、中世の宮廷の道化のように見えるカーナビ―・ストリート・スタイルの格子のスーツや、人生はジョークであり、自分の運命はそれを伝えることを表明する白の大きな水玉模様のシャツを着て、ステージに立っていた。

「ライク・ア・ローリング・ストーン」  グリール・マーカス著 菅野ヘッケル訳

 この曲のJokermanという題名はjokerとmanという二つの単語を繋げたディランの造語である。jokerもmanもどちらも一般的には「人」を指す単語だから、jokermanの語感としては「冗談好きな人にみえる人」といったような感じになる。この奇妙な語感は「ボブ・ディラン」というペルソナをよく表しているとわたしは感じている。
 ロバート・アレン・ジママンとして生まれた青年は、プロとしてのデビュー直後、法律上も改名して「ボブ・ディラン」となった。相当な覚悟で行った行為であることは察せられるが、両者の葛藤を歌った曲は、ディランのキャリアの随所でみられる。最初期のものとしては、 It’s all over now, Baby Blueが挙げられる。そして、このJokermanもその系列に入るものとわたしはみている。
 この曲の語り手はJokerman(=ボブ・ディラン)を客体としてみている。だから、語り手の視点は「ロバート・アレン・ジママン」という一市民のものでありながら、歌詞と曲という表現は「ボブ・ディラン」という錯綜した関係にある。この構造はMr. Tambourine Manと同じで、語り手の視点が「ボブ・ディラン」の側にある It’s all over now, Baby Blueと対称的である。
 キリスト教に題材を求めた、前三作のあとに発表された「INFIDELS(不信心者 たち)」というアルバムにこの曲は収められている。このアルバムタイトルが複数形なのもディランが一人でありながら二人であることを指しているものと思われる。キリスト教を通じて世界と関わろうした熱意が感じられた前作までとは違い、世界の傍観者にとどまりながらも、今日もどこかで生まれている「王子」にむけて、水の上に「パン」を投げ続けようとする姿勢が歌われている。

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