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人生はプラマイゼロ

昨年、岩手に住む伯父が突然死した。
享年64。

「18分以上蘇生処置をしていますが、一度も反応が戻りません。中止の同意を頂けないでしょうか」


そんな電話があったことを今でも鮮明に覚えている。

悲しみに暮れる間もなく、手続きに奔走する母に同行した。


伯父は農業を営んでいたこともあり、その手続きは多岐に渡った。

そもそも明日も生きること前提でいる人の手続きは想像以上に大変だった。


公共料金の払い込み・停止はもちろん、契約しているサブスクの洗い出しやローンの有無など、契約内容の確認はもちろん、優先順位のつけ方にも頭を悩ませた。

加えて既に手を付けている田んぼや畑をどうするのか問題。

どうやら収穫の前に納めなければいけないお金があるとか、代理を立てるにも届け出がいくつも必要だとか、その他地域独自のルールやしきたりを葬式の合間に色んな人から聞かされ、2人して疲弊した。


それらを1つ1つクリアし、ある程度目途がついたのが昨年末。


多少なりともあった遺産も莫大なローンや農業関係の支払いに充てられ、最終的に残ったお金を見て母がポツリと言った。

「人生ってプラマイゼロやなあ」


話を聞いてみると、昔実家のお風呂とトイレを修繕したいという話が出た時に父親が出してくれたお金とほぼ同額が残ったという。


当時の母は修繕にかかる費用がどれだけインパクトのある金額か分かっておらず「お父さん出してくれない?」と軽い気持ちで聞いたらしい。


そんな母に父は2つ返事で「いいよ」と答えていたそうだ。


その後父は働けなくなり、その額の大きさとありがたさを嫌と言うほど実感することになるのだが、残ったお金を見て「返してほしいなんて一言も言ってないし、思ってもいないだろうけど、あの時出してくれた分がまるまる返ってきた気がしてね」としみじみと語った。


このエピソードだけだと、母はお金に無頓着で能天気なように見えるかもしれない。


けれど私の目からみた母は間違いなく苦労をしてきた人で、自分のことは後回しにして家事や育児に奔走し、今は家計をも支えてくれている。



「人生はプラマイゼロ」



もしこの理論が正しいのだとしたら、両親ともにもっとプラスの出来事があるはずだ。


と思うと同時に(これは私のエゴかもしれないけれど)もっとプラスの出来事を与えたいなとも思うのだ。



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