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ドアの向こうへ vol.3

 支援センターひだまりの最年長のスタッフ倉岡達彦は支援センターの内にある個室で、定期的にここへ通ってくる、曽山の話に耳を傾けていた。

「おぉ、お顔の色、いいですね、曽山さん」と、いつもの優しい声で声をかけた。そして続けて、
「何か、良いこと、ございましたか?」

 このビルの前の通りは交通量が多い、1階の施設ということだったので、改装する際に、事務所と4つある個室のすべての壁と窓を、防音処理を施した。階を上にすることも考えたが、入りやすさを考慮して、ここに決めた。

 表の雑踏から切り離された部屋で、曽山は
「あぁ、ありがとうございます、こちらこそ、いつもお話を聞いて下さり、ありがとうございます。特段、いいことが、あったわけではないのですが、私も最近、家で美味いコーヒーを、あ、自画自賛ですけど、そのコーヒーを、入れられるようになりまして、お隣のご主人と拙宅の小さな庭、でコ―ヒーブレイクなどと言って、楽しんでるんです」
「これも、マスタ、あ、ここでは、倉岡さんでしたね・・・」

「あはは、マスターでいいですよ、曽山さん」
「あ、はい、では、マスターから、コーヒーの入れ方や、器具や豆の選び方など、お邪魔するたびに、丁寧に教えてくださったからです、ありがとうございます」

「いやいや、これはお恥ずかしい、お教えするというより、自慢話を聞いていただいたってのが、正しいとおもいます」と倉岡は頭を掻いて笑った。
倉岡は、曽山が隣人まで招いてコーヒータイムを取るようになった。
ここまで、出来るように、心が落ち着いてきた事に、安堵していた。

 曽山は、現在60歳、地元の証券会社TG証券(株)へ勤務していた。地元の会社ではあったが先代の社長が一代で築き上げ、都内や近郊の大都市で支店もあり地元では、誰もが知っている証券会社だった。
彼はそこの第一線でバリバリの証券マンだった。都内出身の曽山は高校から都内の大学へ進み、入社後、都内の支店へ配属された。
人当たりも良く、頭も切れて、営業能力も高く、入社当時から常にトップを走り続けたエリート証券マンだった。
 2010年、新年度に社長が変わり経営方針と人事の改正が行われた。それに伴い、曽山は営業現場から本店の総務課へ転属された。総務課の中で人事、主にリストラに関わる責任者として任された、それは曽山が50歳になったころだった。年齢的には管理職へ就いてもおかしくはない、営業部長というのが相応の移動だと会社内でもそんな声もあがっていたが、結果は違っていたのだ。入社して28年間、営業一筋で走り続けた彼は、総務室前の広報版に貼りだされた、たった一枚の紙きれで、人生を変えられてしまった。

 転属から5年目の夏、外は今日も朝から容赦なく太陽が照りつけていた。
温厚な人柄の曽山から、いつしか笑顔が消え、絶えず眉間に皺を寄せ、近づき難く、声をかけ辛い人物になっていた。今日も曽山は、いつもの様に、本店へ呼び出された同期入社の同僚や、自分より年上の者たちへ、現実的な実績と給料とのバランスを説明し、それが、リストラの経緯であることを伝え、溜息をついて机上の書類を閉じた。ふと見上げた壁の時計は、正午を指していた。

 昼食後、身だしなみを整えようと、手洗いの鏡を見て、ギョッとした。
「これが、俺の顔か?・・・・なんて顔色の悪い、土色になっているじゃないか」、眼も落ちくぼみ、眉間には深い2本の皺が見て取れる。愕然とした。そして、ガタガタと身体が震え始め、大声で叫び出したい衝動にかられた。
鏡の中の自分を見ながら
「ヤメロ、ヤメロ、我慢しろ、お前には家族がある、今、それをしたら、ここに、いられなくなるぞ、ヤメロ、頼む、ヤメテくれ」と、抑えようとするが、
ぶつん、と何かが切れ、その音が身体の中に響いた。

 「おいこら、冗談じゃねぇぞ、誰が好き好んでこんなことするものか」と
拳で鏡を叩き割った。割れた鏡の破片が拳に刺さり、出血したが、逆上しているから痛みも感じなくなっていた。
すっかり人相が変わった曽山は、大声で叫びながら階段を最上階まで駆け上がり、役員室のドアを蹴破った。
「うらぁ、社長を出せ、ここへ、連れてこい」
デスクのペン立てにあった鋏を、出血している右手で、素早く掴み取り、秘書の横山の顔の前へ、突き出し脅した。
「きゃー」と言う悲鳴を放ち、彼女は椅子から飛び退いた。悲鳴を聞きつけ、社長、専務など重役達が、一斉にそれぞれの部屋から、飛び出して来た。

 横山は背後から左腕を首へ回され、血だらけの右手で持っている鋏で脅かされ、ぶるぶると震えていた。
曽山と横山の、その姿を目の当たりにして、彼らは呆然と立ちすくんだ。

「専務、警察へ連絡を、大至急」
社長の蓼科はこう告げてから
「どうしたんだい、曽山君、物騒なことは、止めよう、話ならゆっくり聞くから、まずは横山君を、放してくれないか? その手、どうしたんだい、傷の手当てをしよう、な。曽山」
蓼科は曽山を刺激しないように、ソフトに話しかける、だが、頭に血が上り、気が違ってしまっている曽山の耳には、その猫なで声が更に逆なでした。
「こぉら、蓼科、その口調、そのしゃべり方に、俺はまんまと騙されちまったんだよ」と、ぐいっと、秘書の横山を掴まえ直し、ますます鋏を近づけた。
「なんで、同期のお前が社長で、俺は責められ役の、リストラ仕事なんだよ」
「証券マン時代には、俺の方がお前よりも、実績を上げていたのによ」
「蓼科財閥のお嬢様を手なずけたお前の作戦勝ちって、とこだろうけどよ」
叫びながら曽山は少し残っている、まともな思考のところで、
あぁ、つまりは俺は蓼科に嫉妬していたんだな。その腹いせに、証券マンのエースになろうと決意したし、実際いつも成績トップだった、いい気にもなっていた。だから蓼科は俺の事が目障りになって、部署替えを実行したのだろう。くそっ 蓼科め!
そう思うと、少し治まりかけていた怒りが、また激しく突き上げてきた。

 横山を付き放すと同時に蓼科めがけ、叫び声を上げ、鋏を振り上げ突進していった。
と、その時ガツンと曽山は右肩に衝撃を受けた、鋏が手から床へ落ちた、「何だ!」振り向いた時、左足の脛へもう一撃。
曽山は「ぐぉ」と叫び、そのまま倒れこんでしまった。
通報を受け、駆け付けた警察官の警棒が、振り下ろされたのだった。
幸い曽山以外、誰もけが人は出なかった。
すぐさま曽山は取り押さえられ警察管轄の病院へ運ばれた。
その後、事件の内容の確認で、取り調べに応じた、蓼科は、会社内で起こった出来事として、訴えなども起こさず、社内で解決することを望んだので、傷害事件にはならなかった。
 
 あの事件から、2週間が過ぎた、曽山は入院先のベッドの上にいた。傷は癒え、今日退院の予定だ。だが、心に大きく傷を負い、会社への後ろめたさも背負っていた。
今回の事で曽山の妻、春代は世間体を気にしているのだろう、見舞いへも来なかった。
 入院から一週間ほどで彼はベッドから起き上がれるようになった。病室の窓から中庭の百日紅が見える。その花を見ながら、春代へ詫びの言葉を伝えなければと思い、電話をかけた。
長い呼び出し音の後、ようやく繋がった。
あ、俺だ、と言いかけたが、「この電話はお客様のご都合でお繋ぎできません」というガイダンスが、耳元のスピーカーから無機質に聞こえるだけだった。
 昨日、蓼科が見舞いに来た。
回復したら会社へ戻って来いと、言って見舞金を渡してくれた。
心遣いはありがたいが、あのような事を起こした訳だから受け取れない、また会社へ顔を出せるはずもなかった。
「ありがとう、だけど、これは受け取れないし、会社も辞めるよ」こう告げた。
すると、蓼科は
「まぁ、そんなに結論を急がずに、退院して、まずは、ゆっくり1ヶ月程休め、それからだな」
「・・・・・・」
「じゃあな、曽山」と、見舞金をそのままにして、蓼科は帰って行った。

 退院の手続きを澄ませ自宅へ帰った。出迎えのない我家、郵便受けの溜まった郵便物を整理しようと、手をかけた時、スーパーマーケットのチラシに紛れて、宛名の書かれた一通の白い封筒がハラりと落ちてきた。切手が貼ってあり 3日前の消印だ、裏返す、差出人は妻の春代だった。嫌な予感がした、玄関先で突っ立ったまま中身を取り出すと、それは見慣れた文字で書かれた離婚届だった。
 鬱々とした時間が曽山を縛り付け、とうとう曽山は一歩も外へ出られなくなってしまった。そして1ヶ月の休職後、会社へ退職届を出した。
 事件、離婚、退職とさすがに堪えて、それから約半年ほど引きこもり状態になった。
だが考えた、このまま、引きこもってばかりいられない。少しずつ外へ出るようにした。まずは家の庭へ出て読書を試す、小さな庭だが、時折り名も知らぬ野鳥が庭木に止まり、囀ってくれる。土手沿いを誰とも会わない早朝に朝焼けを浴びながら散歩もした。毎日土手沿いを散歩してるうちに、足元の綺麗に咲いた野草が気になりだした。その姿に元気づけられる自分がいる事を実感した。そうだと思い、その野草を庭に植え替えたりもした。花や鳥や空がこんな風に癒してくれる事に驚き感謝した。
次第に、一人暮らしも慣れると快適な事に気が付いた、家人に気を使うこともないし、自分のための時間も出来る。働き詰めの頃には思いもしないことだった。
 だが、突如として、罪悪感が沸き上がってしまう。あの秘書の横山の恐怖でこわばった顔、俺の悪魔のような叫び声とを思い出し、眠れなくなる。妻への申し訳ない気持ち、拭い去れない過去を突き付けられ、どうしようもない感情が波のように押し寄せてくる。こんな時は、前のように、誰にも会いたくなくなり、外へも出たくなくなる。いっそこのまま、死んでしまおうかと、俺と同じような、願望者のネット上の書き込み記事を、読みながら、深酒をしてソファーで眠ってしまう時もある。
 この心のざわめきは、ずっと無くなることはないと思う、このざわめきと上手く付き合っていかなければならないだろう。

 気分も回復した金曜日の午後、曽山は公園のベンチで本を読んでいた。子供連れの親子が楽しそうにブランコで遊んでいた。この公園は街中にあるが、本通りより一本入ったところに位置するためか、閑静としていて雑踏から切り離される、ちょっとした穴場だった。
と、その時、鼻先を、挽きたて?煎りたて?コーヒーの香が、くすぐった。視線を本から外し顔をあげた、文庫本をズボンの後ろポケットへねじ込み、香りに誘われるまま歩き出した。
「こっちからか?」公園の西側出口まできたらますます香りが強くなった。公園に平行して通っていこの通りの右側に【喫茶ひまわり】の看板を見つけた。香の元はあの喫茶店のようだ。
通りにでその喫茶店へ足を向ける。
入り口の前に立った、営業中の札も下がっている。
喫茶店なんて何年ぶりだろう・・・・
香に誘われるまま、ドアを押し開け曽山は、店内へ入って行った。
カランカランとドアに下がっているベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」シルバーグレイの髪型にブルーデニムのエプロン姿がよく似合うマスターだ。
「香りに誘われて来ちゃいました。いい香りですね、ここのお店で焙煎なさってるのですか?」
どうぞ、とマスターはカウンターへ水とメニューを置いてくれた。
「あぁ、そうでしたか、そうなんです今日は
入庫した豆の自家焙煎の日なんです」
「マスターの今日のおすすめのコーヒーは」
ここは、知ったかぶりするよりも、素直に聞いた方が良い

「今日は・・・・そうねーグアテマラもいいかな、あとはサクラコ、ここで入庫するコーヒー豆はフェアトレイドで輸入されている豆を使っているんです、あぁ自慢になっちゃいましたね・・・・そうだ、野生のモカなんてのもあります、お客様でちょうどおしまいですね。いかがです?」
と、マスターは、その野生のモカの豆が入っている瓶を、豆の瓶が、たくさん並んだ棚の中から、取り出し振り返りながら言った。
「野生ですか?栽培されていないということですよね?」と聞き返す。
「そうです、入手先の農園で偶然見つけたそうです」
「野生のコーヒー豆があるなんて思いもしなかったな、その野生のモカをください」俺は迷わずそれをオーダーした。
「はい、承知しました」とマスターは、にこやかに笑って、コーヒードリップポットをコンロに載せた。

これが曽山と倉岡との最初の出会いだった。

《続く》

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