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人生は物語ではないんだが^^;


みなさ〜ん! ”物語”、読んでますか?
(あるいは、見てますか?聞いてますか?)

私は読んでいますし、見ていますし、聞いています!

漫画であれ小説であれドラマであれアニメであれゲームであれ、私は毎日物語を楽しんでます!

特に、恋愛の物語が好きですね〜


↓カッコの中読まなくていいです

少女漫画とか
(マンガParkという白泉社のアプリでここ最近全話無料とかやっていて、花ざかりの君たちへを一気読みしました。やはり王道の物語っていいですね。主人公のものすごい鈍感ぶりが、まさに伝統芸能でした)

BL漫画とか
(最近買ったのは「いけにえもんぜんばらい」というやつです。電子書店で評価が異様に高かったので買って読んでみました。←世間の評価に左右される人間……)

よしもとばななとか瀬尾まいことか川上未映子とか
(よしもとばななや瀬尾まいこや川上未映子の小説を、"恋愛の物語"というつまらない枠で語るな!!!!という怒りは置いておいて)

ドラマでも、愛の不時着とか
(韓国ドラマ初めて見たんですけど面白いですね。あの最高潮に盛り上がってファッ!!ってEDに入るところとか、コッテコテですけど、恋愛の物語って王道で、コテコテであればあるほどいいんですよね)


とにかく、恋愛の物語をすごく消費しているんですよね〜


JPOPの歌詞とか俵万智の短歌とかもそうですよ。

デフォルメされた恋愛の物語をチューチュー吸って、最高〜〜〜〜〜!!という感じに日々生きてるんですけど、


でも数年くらい前から私は気づいていることがあって


恋愛の物語と現実の恋愛ほど乖離しているものはないんですよね〜


こういうこと言うと、
「ん?なんか恋愛で嫌なことでもあったのかい?何か実体験を通して思うところでもあったのかい?」とか邪推されそうですけど、

何か具体的な大きな事件・経験を通してというよりは、じんわ〜〜〜〜〜〜〜りとこの数年で実感してきたというか、理解できたことなんです。

私、女子校育ちなので、中高六年間、恋愛の物語(あるいは、物語化された恋愛)にしか触れてこなくて、大学生になってからようやくこの実感が湧いたんですよね。


他の人はもっと前から理解していたことなのかな。
いや、でもインターネット(ツイッターなど)を見ていると、そうでもないのかもしれません。


50歳と14歳は真剣交際可能みたいな話あったじゃないですか。


50歳と14歳の恋愛……

恋愛の物語の中では、可能ですよ。


物語の中の14歳って、大人の脳みそを持った書き手が作った14歳なので、思考回路は大人みたいなものだし。
ただ見た目が14歳として描かれてるだけで。


コナンくんみたいなもんですよ。
(実は私コナンを一度も読んだことも、見たこともないんです。安室さんが人気だっていうのは知ってます。アムロが出てくる方は見たことがあるんですがね←こんな私、異端か?)

ともあれ、恋愛の物語の中に出てくる子どもなんてみんな「見た目は子ども、心は大人」みたいなもんなんだから、
そりゃ50歳と14歳で真剣に恋愛できますよ。


しかし、現実の恋愛ではどうかな……?^^


私はアルバイトで塾講師やってたからわかるのですが、中学生は我々成人した人間にとって宇宙人です。


思考のレイヤーが違うっていうんですか、なんか会話がねじれの位置みたいな感じで、全然別の生き物という感じがします。

真剣交際なんてできるわけがないです。

当たり前のことです。普通に考えたらわかります。


ではなぜ一部の人にはわからなくなってしまうのか……?

↑答え:「恋愛=物語化した恋愛」である人がいるから


恋愛の物語は本当に素晴らしいしできることならずっと眺めていたいとか思うけど、それに毒されてしまうと、

50歳と14歳は恋愛できるんだとか、

30代の女を心から愛して支えてくれる大人びた男子中学生はいるんだとか、

セックスは恋愛のゴールでその最高潮の盛り上がり・ロマンチックな雰囲気を壊さないためにもいちいち同意の確認をとるなんて野暮だとか、

そういう考え方を現実に持ち込んでしまうことがあるんですね〜〜〜


私も女子校時代は、男子高校生はみんなハイキューの菅原さんくらい大人びてかっこよくて立派な人間だと思って神格化していたので耳が痛いです。


現実の恋愛と物語の恋愛は似ているようで違う、いやもはや似てすらいない、完全な別物

ってこと、忘れないようにしていきたいですね☆



ここで、私が最近常に噛み締めて、折に触れて思い出すようにしている言葉を二つ、ご紹介します。


一つ目は、ご存知セックス・エデュケーションという神ドラマのセリフ


愛は月や星のように大袈裟なものではない

(セックス・エデュケーションは恋とか性愛がテーマのドラマですが、「性行為(エロ)」を尊ぶのではなく、それを行う「人間」を尊重して描いていると感じます。「ロマンチックな性行為」という物語的な盛り上がりのために登場人物たちの人権が蔑ろにされることがない、というか)


そして二つ目は、最近見たとあるVtuberの動画から


「なんかお姫様の恋愛を想像していないかな?」

(自分に向けられる好意に「なんで私のことなんか好きになるんだろう?」と思ってしまう、という相談のお便りに対しての返答でした。「人が人を好きになるには、おとぎ話の中の恋愛のような大層な理由が必要だ」という考え方が質問者の深層心理にあったのかもしれないと思うと、すごくいい返しだと思いました)




さて、

ここまでは恋愛の物語に限定して書きましたが、何も恋愛だけの話じゃないと思います。


人は人を簡単に物語化して、解釈し、理解してしまう。


インターネットが普及してから、その風潮はさらに強まりつつあります。

(「インターネットが普及してから」とか偉そうに書きましたが、私は現代っ子なので普及以前のことは知りません。勘で書きました)

スポーツ選手がこれこれこういう生い立ちで、こういう思いを持って頑張ってます、みたいなやつよくあるでしょ? 

俳優とかアイドルとかの人生をわかりやすく解釈して、みんな消費してるでしょ? 

(ZOCがバズったのもそれだと思うんですよね。生き様を物語化して、みんなで消費して「尊い……」ってなる。ただの人間を一つの物語の枠に押し込めて解釈するなんて不可能なのに……)


「人間」より「物語」の方がわかりやすい。
わかりやすいってことは、バズりやすい。


当然ながら人生は物語ではないし、
世界というのは全員デッドエンドが確定しているただの、空間、時間の流れに沿ってただ我々という一人一人が飯食ったり寝たりうんちをしたりしているという空間の共有の状態なのに、

物語で溢れた現代社会では、自分の人生も他人の人生も、全部物語にされちゃうんですね〜〜


自己や他者の物語化の先には何があるか。

最終的には、全てがコンテンツ化されていく。


切り分けて、わかりやすく、私の物語にとってこの人はこういう存在、こういう立ち位置、限りなくデフォルメしていって、相手のことを「要素」でしか見なくなる。

本当は人間はもっと複雑な存在で(というか存在かすら危うくて)
何というか、脳みそを持っている。

驚くべきことだが、みんな脳みそを持っている。

脳みそがあって一人一人自我を持って、毎日ただただ生きている。


理解も解釈もできない。だから消費もできない

「オタクに優しいギャル」も「子猫を拾う心優しいヤンキー」も「星野源みたいな普通の男性」もいない。


みんなちゃんと、一人の人間として生まれ、その人の人生を生きてるから。

お前に理解され、解釈され、消費されるために、お前の人生物語の登場人物として存在するわけではないから。


そんなこと知ってるよって感じでしょ?


でもこれみんなわかってるつもりになってるだけだと思う。



なぜなら、真に、「物語化」の魔の手から逃れるには、人類はこの世に物語が出現する以前まで遡らなければならないから……



(昨日の夜MIU404を最後まで見て、それでラストの久住の台詞に完全に”やられ”て、これを書きました。私が今回言いたかったことは全て久住のこの言葉に詰まってるね。誰かの独りよがりな「こいつを理解し、解釈したい」という欲望のために、消費のしやすい物語になってやる必要なんてないんだぜっていう……気になる人はMIU404を見よう。いやもうみんな見てるか。乗り遅れてるか。2021年6月になってMIU404見て大興奮してるの私だけか。それは失礼しました)

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