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備忘録44 暮らし

久しぶりにnoteを書く気になったので、思うままに書いてみる。

一人暮らしのいいところは、
好きな時に食べれて、好きなものを食べれて、好きな時に寝れて、好きな時に風呂に入れること。

我が家は4人家族であるからして、風呂もご飯の時間もだいたい決まっていた。
それによって私の生活が後回しになるのが嫌だったので、4月からコツコツ貯金をして、家を出た。

家を出るとね、やっぱり家族が恋しくなるよね、分かってたのよ

お母さんと仲がいいので、仕事場にいた変な人の話とかよくしていた。
その話し相手が居ないのも少し寂しい。

人はいないしお金を気遣う毎日だけど、案外私の生活は安定していて心も穏やかである。

なぜならこの部屋はべらぼうに陽当たりがいい。
陽当たりなんて信じてなかったんだけど、この陽当たりと精神の相関に得てして気づいた。

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なくなって困るものについて考えた。

前の恋人は、ないと生きて行いけないものなんてないと言っていた。

多分「水」とか「塩分」とか本当の話は置いといて
結局人は一人で生きていくのだから、他者が居ないととか、嗜好品として、無いと生きていけないものはない、と言いたかったんだと思う。

その考えが私にとってあまりに寂しく、絶望的な思いをさせたことは間違いない。

人は、他者によって生かされているのだと私は思っている。

だって私は、一人で生きているわけないもの。
確かに生活の中の軸は私で、常に同じ誰かと同じ空気を吸って生活しているわけじゃ無い。
けれど私の周りには色んな人がいて、色んな人の関わりによって私が形成されている。

今特定の誰かがいないと生きていけないとは思わないけど、ある特定の誰かがいなかったら今の私が生きていない、とも思う。

例えば高校の頃友達がいなかったら今私はのらりくらりとニートをしているかもしれない。
もっと遡れば、中学の頃友達が塾に誘ってくれなかったら、高校だって入っていなかったかも。

そういうのって今気づかないだけで、自分の人生グラフを振り返った時にある目盛りにふと気づくものなのでは無いか。

色んな過去を背負ってる彼は、なぜそんなふうに思うのだろうか。
私はこうしていつもの如く、彼の脳みそに思いを馳せている。

これは決して他者依存では無い。他者依存かもしれないけれど、この世の人間はみんなそうやって人と関わり合って生きている。

最近人の関わりの重要さに気づいて、またホッコリしている。
会社の人間がとにかく良い。
課長さんも、トレーナーさんも、取引先のおじいちゃんも。
全員優しくて穏やかな人たちだ。

取引先のおじいさまは、私のことを新卒だと知らないようで、ただの無能な若手だと思われている(多分)。
それでも要望はまっすぐ伝えてくれて、しっかり私の仕事も管理してくれている。
し、何より背がデカい。携帯を顔から5cmくらいの距離で見ている。
あんた、いくつだよ。パソコン扱えんのかよ。もう勇退してもいいんじゃないか。

そんなこんなで、会社は残業もなく人が良すぎるので、私は温室のビニールハウスで育つ野菜のように、ぬくぬくと穏やかに育っていくのである。

こう言った人の関わりを是とするかは、人によると思うが、私から言わせれば「一人で生きてきたわけじゃないのに、何をそんなこと言っているんだ?」と。
ちっぽけな哲学は捨てて、他者に心を許して生きていけよ。楽だぞ。

まあ他者に依存するばかりに、裏切られた時の悲しみや、時間を無駄にしたという懸念は拭いきれないのだけども。
でも人は人だから。その人の事情もあるだろうし、私も同じくして誰かを裏切っているかもしれないし、と思うわけです。

こんなにも心が穏やかで広かったことはないので、ここに記録しておきたいと思います。

博愛主義者にでもなろうかな。

まだあと休みが2日もある。嬉しいです

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