映画を初日4回見たオタクによる「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」のここが好き【感想・解釈・解説】
劇場版呪術廻戦0を見に行った。
(公開初日と本気で向き合ったnoteはこちら)
感想を書こうと思った。
あそこがすごいここがすごい……いろんなことを思ったけど、改めて思い返すとそもそもストーリーのあり方と構成がすごすぎる。
だからまず原作の話をしようと思う。
話はそれからだ。
映画としての、「劇場版」呪術廻戦0の良さはまた別のnoteで話すつもりです。
何故ならこの文字数だから。
⚠️このnoteは、あくまでも「私が呪術廻戦0巻をこのように捉えた」という話であり、正解でも不正解でもなく、ひとつの解釈です。
⚠️このnoteは「呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校」のネタバレを含みます。
⚠️このnoteは呪術廻戦単行本1巻以降、公式ファンブック、すばる2022年1月号の内容を少し引用しています。こちらは避けられる様に事前にここネタバレだよって予告を入れています。
1.価値観を固定しない
これが私が呪術廻戦という物語を愛し尊敬する1番と言ってもいい理由である。
「これが正義でこれが悪である」という画一的な善悪、一般的な道徳観念は、この物語の軸には存在しない。
物語の中で生きる彼ら彼女らの軸にあるのは、それぞれの直面した現実をもとに、すべて自分を根拠にした、地に足がついた多様な主張だ。
だからこそ、基本的に呪術廻戦における戦いは、「正義VS悪」ではなく「エゴVSエゴ」である。
①乙骨と夏油
例えば0巻におけるクライマックス、乙骨と夏油の戦いのラストシーン。乙骨が夏油に対し、自らの戦う理由を主張する場面がある。
0巻の物語の構成上は乙骨が主人公、夏油側は敵役に回っている。そして、夏油の主張は、所謂一般的な倫理観や道徳観念に照らし合わせれば、「間違っている」と主張できるものだ。
そういう立ち位置にあってなお、乙骨が主張するのは、
であり、
夏油の一般的な倫理観や道徳観念から外れた思想に対して、「お前は間違ってる」とは言わない。
彼はずっと呪術と関係のない場所で生きてきた男の子であり、呪術を知って学び始めて1年に満たない、まだ経験の浅い自分のことを知っているから。
彼が画一的な善悪や一般的な道徳観念を軸に生きているわけではなく、自分の価値観をもって夏油に向き合っているからこそ、分からないことは分からないと言えるのだと思う。
「お前は間違っている」と言える根拠なんて乙骨は持ち合わせていないのだ。
代わりに乙骨は自分の言葉で自分の話をする。
実際、乙骨が叫んだ主張は、直後に夏油に指摘される通り、かなり自己中心的。
しかし夏油は、
と続ける。
なぜなら夏油の戦う理由だって、理想とする世界を追う姿勢だって、突き詰めて考えれば乙骨と同じ自己肯定だから。
自分がちゃんと生きていけるように、生きてて良いと思えるように、世界に抗わなくてはならなかったのは夏油も同じだ。(ちなみにこの辺の細かい経緯について知りたい人は8,9巻を読んでください。私が簡略化して語るのはあまりにも野暮です。)
だからこそ、五条との最後の会話の中で夏油はこう言うのだ。
夏油は作中で、自分の理想が非術師を皆殺しにして呪術師の世界を作ることであり、啓蒙ではなく選民を目指していると明言している。
よって、主人公である乙骨を、この世界を守るヒーローとして夏油にぶつけることは簡単だ。
でもそれをしない。
あくまでも彼はヒーローではなく、ただ自分の人生を必死に生きるひとりの男の子だから。
こうやって、呪術廻戦はわかりやすい懲悪勧善ストーリーとは一線を画す。
あの時点で夏油を乙骨が否定することができる唯一の根拠であるはずの「画一的な善悪」を乙骨の主張に持ってこないこと自体が、この物語が画一的な善悪を軸にするつもりはなく、それぞれの持つ地に足がついた価値観を軸にするつもりであるということの証明だと私は思う。
こうして多様な価値観に触れることのできる物語は、私たちに自分の価値観を形成する、あるいは見直す契機をくれるのではないかと思うし、実際私はそうだった。
余談だが、単純な善悪二元論を避けるということは、そのまま物語の複雑化を意味する。物事にはメリットとデメリットがあり、物語の複雑さはある種の面白さを生む一方で、難しくなる=メインの対象年齢が狭まるという側面がある。
対象年齢が狭まるというのは、商業的な面で見ると決して小さくないデメリットなのではないかと思う。このあり方は、決して、絶対に、欠点ではないが、エンタメ業界における弱点にはなり得るのだ。
それでも、この物語をこういう形にしてくださった芥見先生、それを世に出してくれたジャンプ編集の皆様、こういう作品が広く愛される世の中に、感謝が尽きないし、マジでよかったなぁと思う。本当に。
②伊地知と美々子菜々子
物語の登場人物間での、善悪や価値観の違いを明確に描く部分をもう1つ挙げたい。
伊地知さんが美々子菜々子に向けて、
と言うシーン。
そもそも、五条、七海、伊地知などの一部の高専関係者には、以下のセリフから読み取れるように、子供を子供として扱い守ろうとする眼差しを感じる。
五条
七海 (呪術廻戦3巻の引用を含みます)
伊地知 (呪術廻戦4巻、公式ファンブックの引用を含みます)
私は、彼らの眼差しには、灰原を喪い、七海は呪術界から脱し、(その後脱サラして呪術師に復帰しましたが)、夏油が離反するに至った"あの世代"を経験している影響もあるのだと思っている。(伊地知は五条夏油の2つ下、灰原七海は1つ下の世代の元高専生です)
大人にも苦しいような現実を強いることが、10代の子どもたちを破綻させてしまった事実を間近で見てきた彼らには、子供を子供として大人が守るべきだという考え方がある(より強い)のではないだろうか……。
こう考えると、伊地知が美々子菜々子にこう言うのは納得できる。そしてそれはひとつの正しさや優しさの形でもある。
しかし、それに対して美々子の語る主張は
だ。
無論彼女たちとて、一般的な倫理観や道徳観念が存在することだって、それと照らし合わせれば自らの行動が糾弾されることだって理解しているはずだ。
それでも当初からずっと、そんな価値観から彼女たちははじき出されていた。
だからこそ、彼女たちの直面していた現実は、「地図にも載ってねー様なクソ田舎」で受ける酷い迫害だった。
そこから唯一自分たちを助け出してくれた「夏油様」を信じて着いていくことは、世界にはじき出された彼女たちが選び取った唯一の真実、彼女たちがその覚悟をしていないはずがない。
自分たちをはじき出した世界の理屈は、私たちをはじき出した世界で生きる「アンタらで勝手にやってろし」。
そりゃあもう当然、伊地知の言葉には
という反応になるわけだ。
ちなみにこのシーンは、すばる1月号に載っている湊かなえさん、朴性厚さんの「劇場版 呪術廻戦0」公開記念対談でも触れられている。
(以下に引用を含みます)
監督がこういうことを仰って作ってくれるアニメだから、アニメや映画の呪術廻戦もこの点がぶれなくて最高なんだなぁと思う。
是非是非劇場版 呪術廻戦0を見てほしい。
まだ見ていない人はもちろん、もう見た人はもう一度。
③呪術廻戦1巻以降について(おまけ)
ちなみに、画一的な善悪ではなく、それぞれの価値観を軸としているのは、0巻に限った話ではなく、呪術廻戦1巻以降にも言える(以降、2巻、15巻の引用を含みます)。
例えば、呪術廻戦2巻では
伏黒恵は呪術師としての自らのあり方、虎杖を助けたことについて、以下のように言う。
そしてそんな伏黒に対して虎杖は笑ってこう返す。
また、恐らく1番わかりやすい言葉で書かれているのは、15巻でピークを迎える虎杖VS真人の戦い。
虎杖との戦いの中で、真人は虎杖に叫ぶ。
これに対して最終的に虎杖は
と返し、真人の主張を受け入れる。
それぞれの価値観を軸にそれぞれの正しさをぶつけ合うという点で、虎杖と真人の戦いは、鏡合わせの様なものでもあるのだと思う。
閑話休題。
本題に戻りましょう。
2.構成の巧妙さ
冷静に考えると、呪術廻戦0はかなり映画化に適した原作だったなぁと思った。
まず、起承転結がちゃんと存在しているということ。
分け方は色々あると思うしそこは大きな問題ではないけど、呪術廻戦0巻は1〜3+最終話の4話構成になっていて、概ねそれぞれが起承転結に対応していると考えて、転が最終話の半ばまで伸びて、結が決着がついた後部分になる、くらいの感じ。
起承転結が物語の型として存在する上で、読者の感情移入を促す工夫、百鬼夜行に向けた不穏要素、乙骨と同級生たちとの関係性への説得力、乙骨と里香/五条と夏油の対比が散りばめられているのがこの物語の上手いところだと思う。
①感情移入を促す工夫
乙骨は最初は、いわゆる普通の男の子。
呪いってなんですか?術式って、呪霊ってなんですか?命を張って戦う、そういうことにも普通は遭遇しない。
呪術廻戦という物語に初めて触れる読者と、スタート地点はほぼ同じ。
そこから、高専という世界に足を踏み入れていく。真希にも指摘される通り、ここまで乙骨はずっと受動的だ。
そんな乙骨が、真希の言葉を受けて初めて能動的に努力するのが、小学校での任務。
しかし、そこで乙骨本人は、正直別に呪霊と戦ってません。やりあってるのは(やってるのは)里香ちゃんの方です。
里香を呼び出すという点で、精神面での努力はしているわけだが、行動面で乙骨が頑張っているのは、呪霊討伐ではなく怪我人救助の方。
具体的には真希さんと子供2人を抱えて、足をガクガクさせながら歩くこと。
真希の身長は約170cm。決して太ってはいないけど爪楊枝みたいなスーパー細モデル体型ではなく、あれだけの体術から想定するに多分ほぼほぼ骨と皮と筋肉。小学生男子の平均体重を加味すると、どれだけ軽く見積もっても3人合わせて100kgは超えていると想定される。
私たちには同じ経験はなくても、とにかく(自分的に)めちゃくちゃ重いものを持ち運んだ経験は何かしらある。
だから私たちは彼の負担を比較的想像しやすい。
緻密な呪力操作の難しさとか術式発動の難しさとか黒閃の難しさとかはよくわかんないけど、これなら想像できる。
想像しうる体の負担から、今まで「なんだか重い過去を持った気弱そうな男の子」みたいな認識だった乙骨のことを少しだけ知るのだ。
ここから目的意識を持ち、努力し、強くなる乙骨は、徐々に私たち読者との差を広げていく。でも代わりに、この物語に触れはじめてから時間が経っている分、読者は各々の楽しみ方を見つけることができる。
つまり、冒頭での乙骨を読者に近いところに置き、比較的想像可能な状況を持ってきて、感情移入しやすい器とすることで、読者が入り口でこの物語に引き込まれやすい状況を作っているのではないかと思う。
②百鬼夜行に向けた不穏要素
正直ここはそんな長々言うことないです。というか今までが長すぎだ。本当にすいません。
乙骨が目的を持って努力し始め、仲間と打ち解け始め、ああこういう感じで成長していくんだなぁ………(そしておそらくどうにか里香を解呪するんだろうなぁ)と思って読み進める読者の前に、82ページで映るにやりと笑う誰かの口元。
なんとなく先の展開に予測がついてくる(気がした)ところで突然不穏要素を挟み、99ページで姿が明かされ、103ページで正体が明かされ、最初は1コマの絵であった、何かわからない不穏要素が、徐々に近づいてきて、最後は宣戦布告として目の前に現れる。
五条が伊地知との会話の中で夏油の関与について発言するまで、夏油が登場しなかったとしても物語は恙無く進む。
しかし、少しずつ足音が近づいてくるかのように、起承転結の型に沿った縦割りの構造にグラデーションで混ざっていくことで、不穏要素であるが故の不気味さ、気持ち悪さのようなものが上手く活かされているなぁと思う。
同時に、この後何が起こるの?これは何?誰?という読者の興味をひくことで、読者を一層この物語に誘い込む要素にもなっているのだ。
③同級生たちとの関係性への説得力
乙骨は、最終的に真希、棘、パンダが傷付けられることで、夏油を「ブッ殺してやる」と言うに至る。
そこでの乙骨に説得力を持たせるには、乙骨とそれぞれの同級生の関係がちゃんとできていること(=が読者に伝わっていること)が不可欠だ。
・乙骨と真希の関係
乙骨と真希の第一印象は、お互い多分かなり良くない。
乙骨からしたら突然武器を向けてくる怖い人だし、真希は乙骨とペアを組むことになり「げっ」と言っている。
しかし、この小学校の任務で、受動的だった乙骨に、自らの目的を思い出させ、彼を変えるのが真希だ。
真希が乙骨に光を与えるのが、このシーン。
それからしばらく、時間経過とともにお互いのことを知りつつある程度関係を深め、百鬼夜行当日、乙骨は真希の抱える事情を知ることとなる。
呪力がないこと、そのせいで実家から勘当状態にあること、それでも彼女がひたむきに努力していること。
それを知った乙骨は、
と言う。真希は、"禪院家の落ちこぼれ"の烙印を押されてきた今までの人生で、恐らく一度も受けたことのなかった素直な肯定を向けられる。
素直にありがとうとか言う性格ではないが、
と独り言ちる。裏を返せば乙骨の言葉で「認められた気になった」ということだ。
本人にその自覚があるかはともかく、乙骨は自分が与えてもらった光を、今度は真希に返したのである。
この2人の関係性は、44ページで「乙骨 オマエマジで何しにきたんだ」と言った真希が、190ページでは憂太と呼びかけていることからも読み取れる。
・乙骨と棘の関係
こちらも最初は決して良い関係ではない。棘は真希のようにあからさまに険のある態度はしないものの、そもそもふつうに「おにぎりの具しか語彙がない」と言われた時点で普通の人は絡み方に困る。
2話の冒頭では乙骨も、
なんて思っている。
だから、商店街での任務に向かう前、「しゃけ」と乙骨に向けて片手を上げた棘に、意図が分からず咄嗟に謝ってしまう。
しかし、その任務をやり遂げる過程で、棘が怖い人ではないことを乙骨は徐々に彼の行動から理解していく。
84ページ、棘は大切なのど薬と指先を犠牲に乙骨を守る。
88ページ、乙骨を守るためにひとりで呪霊に立ち向かおうとする。
その過程から乙骨は棘を信頼し、
と考えるに至る。
それによって、呪霊を倒した後、任務に向かう前と同じように「しゃけ」と乙骨に向けて片手を上げた棘に、今度はハイタッチで応えることができるのだ。
というパンダの台詞がダメ押しだ。
・乙骨とパンダの関係
150ページで、パンダに「3話は俺メインの回だと思ってたのになぁ…」と言われ芥見先生が「ゴメンね」と謝っているように、真希や棘と違ってパンダとの具体的なエピソードにスポットが当たることはない。
しかし、五条に紹介された際にちゃんと「よろしく」と挨拶をし、真希が乙骨に険のある言い方をしている時に真希を止めるなど、パンダは比較的最初から友好的な態度を取っていた。
棘が2級術師として単独任務を任されることを説明してくれるのもパンダだ。
また、
というように、乙骨との距離が縮まる具体的なエピソードは描写されない代わりに、パンダには他の同級生を気にかけ、思いやる姿勢が随所で見られる。「人間ではない」からこそのある種達観した姿勢も見えるような気がする。
パンダは「パンダである」という外見の異質性を除けば、内面や行動的にはかなり普通に絡みやすいキャラクターなのだ。
④ 乙骨と里香/五条と夏油の対比
呪術廻戦0巻を語る上で絶対に欠かせないのが、五条と夏油の関係だ。
夏油はただの敵ではなく、五条と縁のある人間であった。
2人の間にあったいきさつは、これも8,9巻を読んでほしい。私が簡略化して語るのはあまりにも野暮part2
少なくとも、2人には、百鬼夜行という事件があった後ですら
と五条悟に言わしめるだけの関係があるわけだ。
なぜ??どんな??と言う部分は8,9巻を読まない限りわからないが、特別な関係性であることは以下のように要所要所で示される。
五条の台詞
夏油の台詞
そもそも高専の教師と呪詛師という対立関係にある2人が、悟、傑と呼び合っていること自体、2人に何らかの事情がなければおかしいことである。
こうやって五条と夏油がただの敵同士ではないことがわかっているからこそ、乙骨に敗れた夏油のもとに五条がやってくる最期のやりとりが、この物語のもうひとつのクライマックスになる。
主人公乙骨が敵夏油を倒し、里香と離別する。
というメインのストーリーの裏に、
五条と夏油に何らかの関係があったことを示す
ことで、
乙骨が夏油を倒す=五条が夏油と離別する
という図式が完成する。
それにより、
乙骨と里香⇔五条と夏油
という対比構造が生まれ、物語はこれほどまでに立体的なものになる。
乙骨と里香、五条と夏油の関係の対比について、もう少し異同をまとめる。
・菅原道真の子孫である乙骨、御三家の五条⇔非術師家庭の里香、夏油
・里香が呪いの姿になっても尚、そこに無邪気に愛を語った幼い里香を見る乙骨⇔夏油が最悪の呪詛師となっても尚、彼をたった一人の親友だと言う五条
・解呪され女の子の姿でこの世を去る里香⇔五条の言葉を受け笑顔でこの世を去る夏油
・里香の解呪後も指輪を外さない乙骨⇔夏油死別後も彼を親友と呼ぶ五条
・相手の死に際に呪いをかけた乙骨⇔最期に呪いの言葉を吐かなかった五条
などが挙げられる。このあたりも、8,9巻で五条と夏油の関係が明確になると、もっと沢山言えることが出てくる。
ちなみに「東京都立呪術高等専門学校」はそもそも新人連載で、この時点で呪術廻戦の連載をする予定はなかったらしい。
よって8,9巻での五条と夏油のエピソードは所謂後付けであり(芥見先生の脳内では何となく存在したかもしれないが)、あの懐玉・玉折編がちゃんと本編とも繋がるようにキャラ付けをしてストーリーを展開させ、0巻で散りばめた伏線を回収し、乙骨里香との対比構造を完成させた芥見先生は本当にすごいと思う。ヤバい。
⑤まとめ
つまり、
乙骨の成長と夏油との戦い、里香との別れを軸に起承転結を組み立て、
その裏に五条と夏油の別れを対比構造として組み込むことで物語に深みを持たせ、
初期の乙骨を共感しやすいキャラクターにすることと夏油という不穏要素を徐々に近づけることで読者を物語に引き込んで、
その上でラストシーンに説得力が出るように乙骨と同級生の関係も丁寧に描いている。
これだけのことがあの1冊に組み込まれているのである。
天才の構成力、新人連載でそれをやりきった芥見下々先生、マジで人間か………???と思わざるを得ない。
3.おわり
物語の中で価値観を固定しないあり方、読者を引き込み、物語に深みを持たせる脅威の構成力という2つの観点から呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校という物語の魅力について書きました。
他にもここ!ここが良い!ってポイントは本当にたくさんあるんですがこの辺りで終わります。
繰り返しになりますが、あくまでこれは私なりの呪術廻戦0の解釈であり、正解でも不正解でもありません。これを読んで、確かに!と思うこともそれは違くない?と思うことも否定しません。
長々と読んでくれてありがとうございました!!!!
劇場版呪術廻戦0をぜひ劇場で見てください。
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