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クマを殺していい派の主張が強くなってるのが怖い

最近、世間やインターネットで熊の出現が話題になっています。
ついに東京でも町中での目撃事例が報道されました。
そんな中でヒートアップしがちな話題が「動物愛護団体による熊の擁護論」です。
何も熊を殺す必要はないのではないのか、熊が山から出てくる原因は人にあるのだから殺すのが酷い、という主張です。

インターネットはこのような主張がやり玉に上げられがちです。
「悠長なことを言って人が死んだらどうする」のような現実的な議論から「じゃあお前が熊と共存すれば笑」という冷笑までありますが、世論としては「熊を殺せ」の主張のほうが強いように感じます。
熊被害が深刻な秋田県の知事も積極的に殺す、愛護団体の電話は無視する、と強行的な態度をとっています。

僕が思っていることは「熊を殺すな!」や「熊と共存しよう!」のどちらでもないです。
せめて人と人くらいはわかりあおうじゃないか、ということです。

僕は犬を飼っていた経験もあり、動物が好きです。動物がむやみに殺されることには心を痛めます。
なので愛護側の人の気持ちはわかります。動物をむやみに殺すのはよくありません。

一方で凶悪な熊に人間が立ち向かうには兵器を持って殺害するしかないという現実があります。
一度追い返せたとしても再び人里におりてくる可能性もあります。周辺住民は常に熊の危機に怯えながら暮らさなければなりません。

「殺すな」と「殺せ」の対立は「気持ち」と「現実」の対立となっています。
国際問題や政治であれば「現実」vs「現実」の対立になるので議論の価値がありますが、主張の軸が異なるもの同士では対立になりえません。
ここで行うべきは議論でも主張でも冷笑でもなく歩み寄りです。

殺せ派の人にも動物を好きだという気持ち、動物の死体を見てかわいそうだと思う気持ちはあることだと思います。
だから殺すな派に切り替えろということではありません。

殺すな派の人も動物とまともにやりあうことができない現実は理解できると思います。
だから殺せ派の主張を飲み込めとはいいません。

僕が今一番、恐ろしいと思っていることは殺せ派の声が大きいことです。
動物相手とはいえ殺して構わない理由があるなら殺しが許されているのが異常だと思います。
極端な話ですが主張内容でいえばロシアやハマスとやっていることは変わりません。

もちろん熊と仲良く暮らすこともできない以上、殺さざるをえない現実というのも理解しています。
熊が山から降りてこないように偉い人や賢い人達が考えてくれていて、今は対症療法的に殺すという選択肢が一番現実的です。

今回考えをまとめるようと思ったきっかけはコテンラジオの下の回を聞いたことです。

途中で出てきた話をざっくりをまとめると以下になります。

当時の人々はユダヤ人を殺すことはいいことだと思っていた。
戦争が終わってからはユダヤ人を殺すのはいけないことだったと社会が変わった。
もし当時に今みたいなインターネットやメディアがあったとしたら「ユダヤ人を殺すのが正しい」とユダヤ人を救っていた人へのキャンセル運動が起こっていたかもしれない。
当時の価値観ではそのようなキャンセル活動は正しいと思うかもしれない、現代の価値観なら間違いだと言える。
じゃあ現代で起きているキャンセル活動や批判、対立は未来の人類が見たらどう思うだろうか。

何度も述べますが熊を殺せ、が間違っているというわけではありません。
その主張を声高にする意味があるのでしょうか。反対派を黙らせることは現実的と言えるのでしょうか。
動物をかわいそうに思う気持ちは間違いではないはずです。そこを否定して他人の意識を捻じ曲げる意味はあるのでしょうか。
もっと言ってしまえば住民の命や熊の被害なんてどうでもよくて、人を小馬鹿にすることを楽しんでいるだけではありませんか。

動物の命がかかっているのに冷笑したり、真剣に悩んでいる人を小馬鹿にする姿勢が正しいとは思えません。
殺すな派の人に現実的な対処の必要性を持ってほしいのであれば寄ってたかってリプを送る必要はありません。そっと教えてあげる程度でいいはずです。

人里に入ってきた熊は殺さざるをえません。でも人と人は気持ちを理解しあってお互いの領域を侵犯しないようにはできます。
そういうお互いへの不干渉の態度をとることが大インターネット時代を平和にする一歩なのだと思います。

それはそれとして、キングオブコントのジグザグジギーのネタ内で「熊被害をどうするか」と聞かれた市長が「捕獲して射殺」と大喜利風に答えていたボケに爆笑しました。

今日の学び。人の倫理観は一意に定まらない。

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