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まちカドまぞくの吉田優子らの笑顔を曇らせたい

まちカドまぞくの吉田優子はどのような人物かと問われれば、人によって様々な答えがあると思う。私の場合、頑張り屋、努力家、優しくて純真な人、他人の気持ちが分かる人、そしてかわいい人といった答え方をすると思う。

吉田優子のかわいさは、その豊かな感情表現に起因する部分があり、もう1人の主人公である千代田桃が感情をあまり表に出さないために、より一層印象に残る。(もちろん笑顔一般に限らず、感情表現自体が豊かなのだけれども。)

まぞくとして魔法少女を倒すべく、いわゆる「ポンコツ」ながらもあれこれと努力して、時に千代田桃に言いくるめられながら、筋トレをしたりなんやかんやで少しずつ成長していくその過程を、吉田優子の豊かな感情表現による強力なエンパシーと共に読者・視聴者に伝えている。

そういう理由で、まちカドまぞくはとても魅力的な作品だと思うし、アニメを見ている方も吉田優子の成長を、また千代田桃らとの平和で幸せな生活を願ってしまう。

ところで、一般論として物語において「落差」というのは話に変化を持たせて面白くしてくれる。「幸せだった主人公がある日災難に巻き込まれて不幸になるも、本人の努力によりまた幸せを掴み取った」という、いわば「骨格」だけでもすでに物語が発生している。この場合、幸福→不幸→幸福という「落差」のある構造がポイントだ。

いわゆる日常系、つまり大きな事件や大変な出来事が発生せず、ありふれた日々の生活を描写していくタイプの作品は、時に「キャラが可愛いだけ」といった批判をされることもあるが、それもこの「落差」が足りないからということが一つの要因といえないだろうか。

かわいい高校生が毎日学校に行くだけでは、高校生のキャラがかわいいだけの平凡な日常になってしまう。実際には私たちの生活というのは大半が平凡なもので、個人的にはそれはそれでアリだと思うし、それこそがリアルなのではないかという気もするが、それでも物語を求める側としては物足りなさを感じるのも仕方ないように思う。

まちカドまぞくも、完全に平凡な日常ではないが、広義の日常系とはいえると思う。現にあらすじでも「日常系」という表現をしている。もちろんアニメでも物語としてかなりテンポよく様々な変化があり、それが面白さに繋がってはいて、見ていて十分に楽しくはあるが、もっと明確な、悪く言えば下品な落差が欲しいと思ってしまう。

その落差を作り出す手っ取り早い方法が、吉田優子の笑顔を曇らせることだ。作中では貧乏でありながら概ね幸せな生活を送っている吉田優子だからこそ、曇らせることで一気に落差が生じる。具体的には以下の@iberico_yuri氏のツイートのようなものだ。

まとめ

私は気持ち悪いおたくなので吉田優子さんが不幸な目に遭っているところを考えるのが好きです。

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