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子と母親の関係とまちカドまぞくのこと

まちカドまぞくの吉田優子は作中で母・清子、妹・良子と良好な関係を保って共に暮らしている。しかし、途中で一度清子と向き合う。清子は優子の出生にも関係する秘密を隠しており、そのことを指摘した千代田桃は優子に対して母親と対峙するよう呼びかける。

作中では千代田桃が対峙と言ったのを退治と勘違いして、吉田家まで来た千代田桃を拒んでいるが、裏を返せば吉田優子が千代田桃の言葉を正しく理解していれば実際に対峙していた可能性がある。

一般に母親は子を産み育て、成長するまで守る存在である。一方で成長する過程でやがて子は親の元を離れなればいけない。子の成長において親との対峙、決別は不可欠といってよい。(もちろん良好な関係を保ちつつゆるやかに離れていくことも多い。)

不可欠なプロセスということは物語の王道の一つということになる。吉田優子は物語を通して一人前のまぞくを目指して成長していくが、そのためには母との対峙が不可欠だったということだろう。

まちカドまぞくに限らず、それまで自分を保護していた母親という存在と向き合うことになるという構造は、もちろん必ずしも描かなければ物語が成立しないというものではないが、成長を描く作品では時々見る気がする。

さらに、母親という存在を描くことで物語に深みが増す。世間一般の家庭では母親がいることが多く、存在を描くだけでもリアリティにつながる。そもそも人間の誕生には、クローンでもなければ卵子を提供する者としての母親が不可欠であり、今のところヒトクローンはほとんど実践されていない。したがって逆に母親がいない場合、その人物には何か暗い過去、例えば死別や離婚があったことを示唆することができる。

もし母親の存在が間接的な描写からも明らかでないと、物語の読者は不安を感じてしまうのではないだろうか。この人物には母親がいるのかという疑問が物語を通して解決されずにいれば、それだけ物語への没入感が損なわれるのかもしれない。

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