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特定の誰かではなく、物事に対して誠実であること

誰かの期待に応えることに疲れてしまった。

これまで自分の大好きな人達の期待に応えることが、自分の中のいちばんの幸せだと思い続けていた。

自分が身体的にも精神的にも追い詰められていき、違和感を感じながらも、それでも期待に応えることを目的にしていた。

ただ、一度立ち止まって過去を振り返ってみたときに、そこで手に入る幸せというのは思っているよりも刹那的で、かついつまでも満たされることのない際限のないものだとことに気づいた。

いわば、劇薬のようなものだ。摂取するとその瞬間は元気になるけれど、時間が経って効果がなくなるとまた求めてしまうという禁断症状に襲われる。

そもそも他人の期待に応え続けるというのは不可能である。しかもそれが複数人となれば、自分の行動は必ず一貫性がないものになるはずで、そんなちぐはぐな状態では、継続して他人も自分も満たすことはできない。

だから、物事に対して誠実であろう。

社会の物事といえば、大抵「誰か」が関わっている。すなわち「ゆるやかに」他人が含まれているのがポイントだ。

ある特定の誰か「だけ」のために自分を尽くすのは誰も幸せにならないけれど、目の前の物事に誠実に取り組む中で、その時関わった誰かの期待に応えていたということになれば、結果オーライ、それ以上はない。

つまり、他人の期待に応えることを目的にするのではなく、物事に誠実に向き合った際の副産物として、他人の期待に応えられた喜びを享受できるというのが、他人への期待へのベストな距離感なのではないだろうか。

この論理でいくと、その「誰か」は状況に応じて、また時間軸に応じて、必ず入れ替わるはずだ。

そんなことを考えついたら、心が少し軽くなった。

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