鏡について

鏡は本当は作られてはいけない物だったと思う。少なくとも「まだ」作られてはいけない物だった。自分の姿を知る、というのは人生のゴールで、そのためだけに寿命をまっとうするのもいいものだろう。鏡はこの世のネタバレであり、神も最初鏡の存在を知ったときはそのとき創ってるもの(エッチな形の野菜とか)の手を止めて頭を抱えたと思う。雨上がりの翌日の水溜り、終電の窓ガラス、ポケットビスケッツのCDの裏面など、神がこの世界を創造する際に遊び心で「自分の姿を知る」ヒントを仕掛けてくれたのに台無しである。

以前見たアダルトビデオで衝撃だったシーンがある。男優が女優をホテルの鏡に手をつかせて後ろから攻めるというシーンで、男優が実物の女優と鏡に映る女優を交互に見ながら「どっちも可愛いってすごいね」と言ったのだ。僕は驚き「神話だ」と思った。まるでアダムとイブの行為を見ているようで、握っていた陰茎がタイムマシンのレバーになったのではないかと疑った。動画を見ていたのはApple社のiPhone。食べかけのりんご。
(キモくてすみません、鳥に言葉を譲ります)

神話で思い出したのだが(世界一かっこいい話の入りじゃん)ナルシストの語源でもあるナルキッソスという人物は水面に映る美少年(自分の姿)に見とれてその場から離れられず痩せ細って死んだらしい。水面に映った自分にキスをしようとして池に落ちて死んだという説もあるらしいが、どちらにせよ凄い。昔テレビで動物番組を見ていて、ふと「水場に顔を近づけて水を飲んでいる動物たちはナルキッソスのように水面に映る自分と激しいキスをしているのかもしれない」と思ったことがある。映っているのが自分だと認識しているのかはわからないが、水場に顔を近づけて水を飲む動物たちは生きるために「水面に映る自分とディープキスをしている」のだ。生きることは自分を愛すること、そういうメッセージなのかもしれない。そう思った僕は、この水の飲み方を人間も一度やってみるべきだと思い挑戦してみた。家にある桶に水を入れ、ベランダで実行した。はじめての動物の練習。桶の水には一人分の空が映っている。そこに恐る恐る顔を近づけると初日の出のようにゆっくりと水面に自分の顔が映し出された。しかし下からのアングルの自分がひどく、全員に無視される初日の出になっていたので重力を憎んだ。重力は美の天敵だ。いっそのこと重力をオフにして永遠に美しく生きれたらどれだけ幸せかと思うが(思うか?)、突然地球の重力がなくなったら全てがバラバラに吹っ飛び大爆発を起こすらしい。大爆発を起こす前に一瞬だけ全人類が格好良くなると思うと、ちょっと面白い。そんなことを考えながら動物のマネをして水に口をつける。水面の自分と口づけしている間はまるで失敗した目玉焼きのように顔のパーツが混ざり合い、口を離すとまた自分の顔に戻っていく。ターミネーター2というものが既に存在してることは知っているのに、ターミネーター2を思いついてしまいそうだ。何口か水を飲み、顔を上げて休み、水を飲み、顔を上げて休み、と繰り返していると、次第に水面に映る自分が自分ではない何かに見えてくる。そしてどこを見ていいのかわからなくなってきて、さらには「普段ペットボトルの水を飲んでいるときはどこを見てたっけ」という不安に駆られる。もしかしたらだが、ペットボトルの水を飲んでいる人間もあれは実は自分自身を見ているのではないのだろうか。だから水を飲んでいるときの景色を思い出せないのだ。自分自身を見つめやすいように水はあのような色、あのような味になったとすら思えてくる。ペットボトルの飲み口は、水面に映る自分と同じ、もう一人の自分の口なのだ。動物が水面の自分と口づけをしながら生命を維持しているように、人間もペットボトルの水で同じことをしていた。生き物は水を飲んでいるとき自分自身を見つめている。動物の練習をしていたのに、いつのまにか動物の本番になっていた。鏡なんてなくても、水を飲めばいい。

鏡がなければ色んな物がなくなる。この世界に存在するものが今あるものの半分くらいになっていただろう。そもそも、鏡が映しているだけでひょっとしたらこの世界のものは元々今あるものの半分しかないのかもしれない。

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