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献血に行く理由。

こんばんは。

今日は日曜日ということもあり、せっかくなので成分献血に行ってきました。

本当は4月の初旬に、献血に行きたかったのですが、宮城の特に仙台はコロナの感染者が多く、仙台市街には行きたいと思えませんでした。けど、今日は人数も前よりは落ち着いてきたし、何かいいことした気分になりたいと思ったので、献血に行きました。

何かいいことをしたいというよりかは、誰かのために役に立っているって気持ちになりたかったから献血に行きました。自分が今生活している中で、自分が誰かのためになっていると強く感じることは多くありません。今はまだ自分の問題で手一杯になっています。

でも、どこか誰かの役に立ちたいって思いがあって、献血に行ったんだと思います。自分の好きなように、規則正しく勉強して、読書して、実験しての毎日を送っていると、どうしても自己中心的になってしまうんです。まして、外交的でもなくて人と話すのに緊張もしている私にとって、誰かのためになっているって実感はとても少ないです。

でも、献血をしたら、相手が誰かはわからなくても、役に立っているじゃないですか。何か特別なことをしたわけでもないのに行くたびにありがとうと言われます。ただ、それだけなのかもしれないです。それだけのために献血に行っているんです。

もし他の人に感謝されるようになったら、献血には行かなくなるかもしれないです。誰かの役に立っている。その実感が欲しいだけかもしれないから。



でも、誰かのためになりたい気持ちを僕は持っています。だから、これからも献血に行きます。献血ができる年であるなら、これからはずっと献血に生き続けると思います。僕の行動が、結果として誰かの役に立っているなら。病気で苦しんで輸血を必要としている人に、心配させることなく治療をさせることができるなら。


こんな奇妙な気持ちを持っているのは、僕だけだと思います。でも、休憩室の隣でマンガを読んでたおじさんも。隣のベッドにいたおばあちゃんも。同じこと感じていたらなんて思うけど。



献血に行く理由は様々だと思います。今日は献血のお礼でフルグラをもらいました。

何もそんなたいそうなものをくれなくてもいいのに。

心の中でそう言葉にしていました。行くたびに献血の景品が豪華になっていっているような気がします。でも、それは少しずれてる気がするんです。

献血して、休憩室でゆっくりして。最後にありがとうって言われるだけで、僕は十分な気がします。お礼の品がどうだろうと関係ないんです。

この不景気とか、コロナとか、自粛とかで心がヘトヘトになっていて、それでも誰かの役に立っているって感じたいから、献血に行くんだと思います。世の中の人がどうかは知りませんが、僕はそうです。そうでもしないと、心が折れてしまいそうだから。


皮肉、人の弱さ、他律性をあたかも存在するかのように書いていることにとても驚いています。「誰かの役に立っていると感じれないと生きれない」と思うことは弱さなのか。それとも普通のことなのか。少なくともさっきはそう思っていたし、今はそうは思っていないです。結局、単なる幻想だったのかもしれないです。



でも、また献血に行きます。「ありがとう」って言われたいから。そして、針の一瞬の痛みに耐えるだけで誰かを救えるのなら。


明日も精力尽くして生きる。




献血=ありがとう❌休憩室❌ジューす

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