山田耕筰ピアノチクルスvol.5山田耕筰IV
2022/10/22長野市竹風堂大門ホール
ソプラノ・小島美穂子
ピアノ・町田莉佳
みなさまようこそおいでくださいました。
今日は山田耕筰チクルス全体の5回目です。次回の第6回も山田耕筰チクルスですから山田耕筰の曲もやりますけれども、耕筰の弟子の江文也の作品が中心になります。山田耕筰のチクルスとしては今日が一応のまとめとゆー感じになります。
今日の前半はお話もそこそこにして「赤とんぼ」など有名な曲を楽しく聴いていただきますが、後半は全体にちょっとしんどい感じになるかと思いますので、すみません。
今日は1926年あたりから1950年代の後期の曲まで聴いてみましょう。1926年が昭和2年ですから、今日はほとんどが昭和の曲になります。「戦争の時代」の曲がほとんどです。
まずピアノの独奏からです。前奏曲「禱り(いのり)」です。
前奏曲「禱り(いのり)」(1928)
オルガン的、コラール的な作品です。ちょっと和風な童謡の感じもあって独特です。1分くらいの短い曲です。山田耕筰は晩年に向けてこーゆー雰囲気の曲が増えてきます。年齢を重ねて徐々に自分のルーツに帰ってゆくような感じでしょうか。では聴いてみましょう。
「いのり」演奏。
では続いて酸模の咲く頃、おろかしく、中国地方の子守唄の3曲です
酸模の咲く頃 (1926-27) 詞:北原白秋
「すかんぽ」は北原白秋の小学校時代の通学路の情景ですね。「童謡百曲集」という曲集に入ってます。この曲集の巻頭の曲が「すかんぽ」なんです。巻頭ですから大事な曲です。今日聴いていただく赤とんぼやこの道、あわて床屋もみんなこの「童謡百曲集」に入ってます。すごい曲集です。
おろかしく(1923)詞:北原白秋
「おろかしく」は、北原白秋と山田耕筰が主幹をつとめていた雑誌「詩と音楽」に発表された作品です。大人むけの芸術歌曲です。関東大震災の頃の作品。震災が日本人に与えた衝撃は非常に大きなものでした。故郷が消失することの恐ろしさを日本中で共有しました。皆が不安になって、郷愁をベースにした連帯感に救いを求めたんです。東日本大震災の時を思い出せば、なんとなくその感じはわかりますよね。だから、この時期には各地の民謡が見直され、新民謡の創作が流行したんです。おらが町のお祭りや古くからある民謡を再発見しようとして、故郷の新しい歌を求めました。白秋や山田耕筰などの音楽家や文学者たちは心の底からその動きに共感して、協力を惜しまなかった。未曾有の国難ですから、みんな本当に必死でした。もし具合のいい既存の曲がなければ新たに作ってでも地域の「歌」を欲しがった。そうやってみんなで連帯して乗り越えようとしたんですよね。「須坂小唄」もそう、「東京音頭」もそう、「ちゃっきり節」もそうです。地域の「歌」がどうしても必要でした。今日聴いて頂く「中国地方の子守唄」、「松島音頭」もそういった流れの中に位置付けられる作品だといえます。
中国地方の子守歌(1928)
中国地方の子守歌は山田耕筰作曲ではなく、編曲作品です。岡山県の子守唄です。岡山出身のテノール歌手が山田耕筰にこれを歌って聞かせて、山田耕筰がそれを楽譜に起こして編曲したんです。非常にポピュラーになりました。
では、すかんぽ、おろかしく、中国地方の子守唄です
演奏。
次は聖福というピアノ曲を聴いていただきます。
前奏曲「聖福」(1933)
友人の婚礼のお祝いで書かれた作品です。これはオルガンのために書かれた作品です。大中恩のオルガン曲集のために書かれました。コラール的な音楽です。途中から、讃美歌286「神はわが力」(信頼)が出てきます。(下の動画の1m05sあたりからです)有名なコラールです。教会で歌われた方もいらっしゃるかもしれませんね。
『かみはわがちから わがたかきやぐら
くるしめるときの ちかきたすけなり』
ってやつです。
山田耕筰の音楽性の基盤になっていたのはまさにこうした四声体の教会の讃美歌だったのです。
では莉佳ちゃんお願いします。
そして有名な赤とんぼから松島音頭までですが…
赤とんぼ(1927) 三木露風
赤とんぼは説明は不要でしょう。これはもう我々日本人の心の歌になってますよね。まさに日本的郷愁の極地です。これは北原白秋ではなく、三木露風の詩です。露風と山田耕筰のコンビの最高傑作です。母恋いの心情と郷愁が高い次元でミックスされています。
このメロディを山田 耕筰は電車の中で三木露風の詩集の余白にサラサラっと書いたらしいですよ。この詩には「母」と言う言葉は出てきませんが、これは母恋いの歌です。幼い露風がねえやにおんぶされて母の帰りを待っていた夕暮れの情景。
赤とんぼ(1927) 三木露風
あわて床屋(1927)詞:北原白秋
あわて床屋は楽しい蟹の床屋さんの歌です。困った床屋さんです。これは大ヒットでした。チョッキンチョッキンチョッキンナとゆーザ・白秋なフレーズが受けたんでしょうねえ。
あわて床屋の後は短いピアノ曲です。
さあ、みんなで一緒に歌いましょう
「さあ、みんなで一緒に歌いましょう」は組曲「子供とおったん」の中の曲です。鉄道唱歌のピアノアレンジですね。みなさん、鉄道唱歌はご存知ですか。全国鉄道めぐりの歌です。「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」
汽笛一聲新橋てきいつせいしんばしを はや我汽車しやは離れたり 愛宕の山やまに入りのこる 月を旅路ぢの友ともとして
ってやつです🚂。長野は「長野に見ゆる大寺は 是ぞしなのゝ善光寺」長野に見ゆる大寺は 是ぞしなのの善光寺
むかし本田の善光が
ひろひし仏なりとかや
です。知ってる方は口ずさんでいただいて構いませんが、短くてあっとゆー間に終わっちゃいますからご注意ください。鉄道唱歌は一応唱歌と銘打たれてますけど、これは音楽じゃなくて社会科の教材でした。地理の勉強のために作られた歌なんです。地名とか、鉄道沿線の風物を学ぶためのものです。東海道の東京から京都まででも大体60番くらいあります。これだけでも途方もないですけど、全国全部やると、なんと300番以上になります。普通は歌い出しの一節も歌えるかどうかって感じですけど、今もそこら中でこの曲は使われてるので、JRの駅や旅番組でよく流れてるので、メロディは本当にポピュラーです。
松島音頭(1928)詞:北原白秋
前半の最後は松島音頭です。仙台で行われた日本舞踊の発表会のために書かれた曲です。発表会に白秋・耕筰の曲なんて贅沢ですねえ。、山田耕筰によるとピアノの左手は太鼓、右手は三味線(お座敷の三味線というよりは津軽三味線のイメージでしょうか…)の模倣だとゆーことですが、このノリの良さはとんでもないです。猛烈に血が騒ぐワイルドで激しい音楽です。ウェストサイド物語のマンボなどのノリにかなり接近してます。山田耕筰の作品の中でも飛び抜けてワイルドでダンサブルな音楽です。
では、赤とんぼ、あわて床屋、「さあみんなで一緒に歌いしょう」「松島音頭」まで一気に聴いてみましょう。美穂子先生お願いします。
休憩
後半はまず「春夢」と「砂山」を聴いていただきます。「春夢」は1934年の作品です。満州国の建国くらいになります(山田耕筰は満州の国歌制定にも関わっています)。満州での日本の侵略行為が国際的に非難されたので、日本は国連を脱退してしまう。ドイツもこの年に脱退してます(ヴェルサイユ条約を破棄して軍拡したいからです)。ドイツではヒトラーが総統になった年です。そんな時期の作品です。
1934年の山田耕筰は長唄交響曲「鶴亀」などを発表し、歌劇「黒船」の準備など芸術的活動もしていましたが、1931年の満州事変以降になるとはっきりと軍国な方に傾いてしまう。
1932年には満州の植民地化を正当化する超大作国策映画「満蒙建国の黎明」(溝口健二監督)のための主題歌「満州興国の歌」(北原白秋詞)を書いたりしていて、こうした活動が1937年のドイツとの合作国策映画「新しき土」(アーノルド・ファンク監督 / 原節子、早川雪舟出演)の音楽監督にもつながっていく。この「新しき土」の関係で山田耕筰はドイツを訪れます。ナチス統治下の異常に整然としたベルリンを見て山田耕筰は驚嘆してしまいます。
そしてユダヤ人問題についてエッセイ(滞獨雑感)で次のように書いてます。
「よその國から見れば、あの問題(ユダヤ人排斥)などは、なんとなく非文化的な行動と見られ勝ちだが、さて實際、獨逸の地を踏んでその實状に触れて見ると、獨逸に新たな生命を吹き込まうとして精進している総統ヒトラーの考えからすれば、あれもまたやむを得ぬ行動の一つであると言わなければならない。とに角、古い獨逸は、確かに、ユダヤ人の桎梏の下に喘いでいたといへよう。良く言へば、ユダヤ人の頭の鋭さが獨逸人を圧迫し、悪く言へば、ユダヤ人の狡猾さが獨逸人を痛めつけていたともいへるのだ....」
日独防共協定があるし、合作映画のこともあるでしょうが、ううーん。さすがにこれはどうですかねえ。これを読む限りでは山田耕筰はユダヤ人問題が「非文化的」であることは感じているんですよね....その上でヒトラーを擁護してる(国策に沿う形で...)。
また山田耕筰は、新聞でユダヤ人と中国人との類似点を挙げながら、どのように中国人を支配するか論じたりもしてます(支配するためには音楽を活用するのが良いと言ってます。そうです、支配者としての側からの、軍需品としての音楽...。)中国の人々にもユダヤの人々に対しても音楽に対しても、とにかくもう何重にも失礼なことを書いてしまう。新聞に載ったりするともう歴史からは消せません...。このあたりから彼の音楽は一気に「軍需品化」していくことになります。
1937年、ついに日中戦争が勃発。彼は1941年に「音楽は軍需品」という旗印のもとに演奏家協会挺身隊を結成し、精力的に活動を始めました。真珠湾攻撃の年です。彼は「仕方なく」そうしたのではなく、積極的かつ自発的に、しかも情熱的にそうしたんです。
日独防共協定の流れで、1938年にはヒトラーユーゲントが来日(日独青少年相互親善交歓事業)。彼らは日本全国を歴訪し大歓迎を受け、日独友好のためのプロパガンダに大きく貢献した。山田耕筰は「萬歳ヒットラー・ユーゲント」を作曲した。作詞は北原白秋。これは日本ビクターからレコードも発売された。今聴くと何とも言えない気分になる録音だ…
耕筰は1942年の「音楽公論」に次のように書いている
「去る八日の宣戦布告以来今日にいたる放送局のゆきかたをみてゐると、ニュースと音楽が主である。私は放送されるマーチをきいてゐて、愛国的音楽、戦時的音楽の種類が少なく、いかにもスケールが小さいのが全く残念であり、全く我々作曲家の責任であると深く恥じている。大東亜戦争を完遂させるための創作活動は自ら国民音楽建設の一助であり、単なる島国日本の国民音楽でなく、大東亜の讃頌歌でなければならぬ。その意味で之からは根本に於て壮美的なものを作曲しなければいけない。艶美的なものにもいいものはあるが、ベートーヴェンの作品が永い生命を持ってゐるのは、根本に壮美精神があり、男性的力が作品基調となってゐるからである(中略)楽壇に対立意見があつてはならない。.....一切を国家に捧げ、私心を投げ捨てて、一致団結せねばならぬ。」
これがスクリャービンに傾倒して赤い鳥で美しい童謡を書いていた男の発言とは....(-_-;) 特にベートーヴェンの音楽を変なマッチョイズムの方向だけで評価し、強引に愛国的戦時音楽の意味付けに使ってしまう。こーゆーのを読むと、おれも音楽業界の一人として悲しくなるし困ってしまう。これはさすがの楽聖も迷惑だろう。そこらのおっさんが居酒屋で酔って喋ってるのと全然違うのだ。日本の誇る天才作曲家の発言.......。だから戦争は怖い。
春夢
では、「春夢」を聴いてみましょうか。非常に美しい作品です。スクリャービン的であるのと同時にドビュッシーのエジプト系の作品のような感覚もあります(6つの古代の墓碑銘、ビリティスの歌、カンマなど)。
では、春夢をお願いします
砂山
中山晋平の大衆的な砂山も有名です。中山晋平の方がずっと有名ですが、山田耕筰の砂山も素晴らしいです。同じ歌詞でこんなにも違うかって驚きがあります。山田耕筰の砂山は、中山晋平とは全然違う感じの芸術歌曲です。もの凄い作品世界です。新潟の、日本海側の天気の悪い時のあの暗くどんよりとした感じが伝わってくるようです。北原白秋はこれを実際に新潟の海を見て、書きました。
この道
そして、いよいよ「この道」です。名作です。からたちの花と並ぶ白秋とのコンビの最高傑作です。これは母を思う歌でもあります。山田耕筰、三木露風、北原白秋の3人は母恋いの思いで強く結ばれています。
ところで、いったい「この道」とはいったい「どの道」なのか。この道は白秋の故郷の九州・柳川の道でもあり、旅行で訪れた北海道や樺太の道でもあります。若い時期の白秋の故郷はひたすら柳川でしたが、日本の帝国主義的領土拡大に伴うように、白秋の故郷の感覚も拡大されていったんですね。この時期の白秋は日本国中を旅していて(植民地の満州や台湾、樺太にも行って)作風も変化してきます。「この道」は柳川でもあり、北海道でもあり、満州や樺太だったとも言えます。「この道」には北海道や樺太の印象が強く反映されてます。南国・九州出身の白秋には北国の風土はさぞかし興味深いものだったでしょう。この道の歌詞には札幌の「白い時計台」、
北海道の代表的な花である「あかしやの花」、「さんざし」が織り込まれています。
当時の北海道や樺太なんて地理的にも精神的にもとても遠いところです。それでも白秋には初めて来たところなのに「いつか来た道」とゆー感覚があったのです(しかもお母さまと行ったと書いてます。極私的な親子の感覚と地理的で政治的な感覚が結びついています。)。それは白秋だけではなく、当時の(帝国主義時代の)日本人もなんとなくどこかで共有していた感覚だったでしょう。今の我々の日本という感覚は北海道から沖縄までですが、当時の人々の感覚は樺太から朝鮮・満州・台湾までが「日本帝国」です。今の我々よりずっと大きいんです。だから「日本帝国」のすべての人々、満州や台湾、朝鮮。樺太の人々にとっても、天皇陛下の赤子である日本国籍を有する者全てにとって「この道」は「いつか来た道」であってほしいと白秋は心から願った。郷愁の普遍化と拡大。(これは極端に振れるとファシズムに接近する可能性があります)。白秋のように「郷愁」を普遍化させてゆくこの感覚こそが「この道」という作品の核心なのだと思うんです。それは平和な時代であれば非常に美しい感覚ですが、危険性も内包する感覚です。
当時の状況を考えて、こんな風にこの歌詞を読むとちょっと複雑な気分にもなりますが、それでもこの作品の価値は全く変わることはありません。
北原白秋と山田耕筰の「この道」が、我々にとっても同様に「いつか来た道」なのだという感覚。日本の郷愁のベーシックになっているようなこの感じは、まさに郷愁の普遍化であり共有なんです。だからこの曲は我々の心を打つんですね。だから、それと同様に白秋と耕筰が通ってきた帝国主義的で軍国主義的な「道」も、大東亜共栄圏の夢も我々日本人にとって「いつか来た道」なんですよね。
それを忘れないようにしたいと思います。
我々は日本人は皆、美しく懐かしい郷愁と同じように、 他国を侵略し、その国の歴史や言葉や人々の権利を奪い、差別して弾圧して虐殺した歴史も、その責任の有無に関わらず、等しく共有しているのだということを....
では、「この道」、をお願いします。
では最後に山田耕筰の晩年の作品を二つ聴いてみましょう。
ピアノのための前奏曲ト短調
ピアノのための前奏曲ト短調は1951年。65歳の時の作品です。もちろん「終戦後」の作品です。山田耕筰は脳卒中で倒れて左半身麻痺になりました。ぼくと同じような状態です。当時は今のようにリハビリの技術も進んでません。しかも還暦越えてからの発症(1948)ですから、今のぼくより状態は悪かったかもしれません。そんな中で書かれたのが前奏曲ト短調です。非常にシンプルでバッハを思わせるようなところもあります。
戦後の山田耕筰はかなり大変でした。戦争中バリバリの軍国オヤジだったので、厳しく戦争責任を問われたんです。耕筰は戦時中の自分の行動について
「祖国の不敗を希ふ国民として当然の行動」だったと述べ、戦時中の愛国的行動が戦争犯罪となるなら日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁されなければならない、
とも言っています。
それはそうなんですけれども、
残念ながら山田耕筰の戦時中の行動は格段に目立っていました。その発言も行動も、数多い軍国主義的作品や発表された文章にしっかり残ってしまっている。
確かに当時のほとんどの芸術家たちが国の方針の通りに活動をしていました。そうするしかなかった。
でも、山田耕筰の異常に元気な軍国オヤジっぷりには唖然とするしかありません。嬉々として高級将校の軍服を着て日本刀を下げてエネルギッシュに活動していました。
これはアドレナリン出まくってますね。
ものすごくハイでぶっ飛んだ状態。
こーゆー感じのおじさんは当時はあちこちにいっぱい居たはずです。町の元気のいい勇ましい軍国おじさん。
今もいるでしょ?(ネットの世界にたくさんいますよね?)
ただ問題は、山田耕筰は日本を代表する天才音楽家だったということなんです。素晴らしい作品をたくさん残してる。
そこが悲劇的だしものすごく残念なところなんです。
今の我々のものの見方で、戦争に直面した当時の人々のことを一方的に裁くようなことは慎まなければなりません。
山田耕筰の本当の気持ちも、今の我々には計り知れません。それでもやっぱり戦時中の山田耕筰の作品や文章は、ちょっとあんまりかなと思います。
心ならずも軍国主義に迎合しなきゃいけない時は何か屈託がありそうなものですけど...山田耕筰にはそれがあまり感じられない。とにかくもう似たような戦意高揚ソングをマシンのように元気よく書き続けました....
余談:露営の歌・暁に祈る…
山田耕筰の常に勇ましいバイタリティ溢れる戦意高揚のための軍歌よりも、むしろ古関裕而が書いた悲愴で痛切な「露営の歌」や「暁に祈る」「若鷲の歌」に心を寄せる人の方が多かったのは当然だと思う(古関裕而のこれらの曲は本当に大ヒットだった)。どんなに多くの人々がこれらの歌を歌って泣き、救われ、励まされたことだろう...多くの兵士の出征の時にこれらの曲は歌われました。こーゆー歌があったから兵士たちは辛い軍隊の生活にも少しは耐えられた。こーゆー歌に力を得て愛する祖国を守るために突撃していった兵士もいたかもしれない。
ああ あの顔で あの声で 手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗 遠い雲間に また浮かぶ(暁に祈る)
古関裕而は「暁に祈る」について次のように語っている
「兵隊の汗にまみれ、労苦を刻んだ日焼けした黒い顔、異郷にあって、故郷を思う心、遠くまで何も知らぬまま運ばれ歩き続ける馬のうるんだ眼、すべては私の眼前にほうふつし、一気呵成に書き上げた」
戦局が悪化してくると、古関裕而の楽曲は更に悲壮感が増していく(一億邀へうつ、など)。
古関は言う。
「心の底に戦いの中に死んでいく兵士たちの人間的な悲劇性といったものは感じていたんでしょうね。それが、曲になって出て来た、と思います」
山田耕筰は戦局が悪化すると、より一層国民を叱咤激励するような勇ましくも明るい音楽を書き続けた(米英撃滅の歌 なんだ空襲など)....。
思えば今日の戦闘に 朱に染まってにっこりと
笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と
残した声が忘らりょか(露営の歌)
そもそも歌は軍需品ではなく、
まず人々の心に寄り添うものです。つらい気持ちに寄り添ってくれる歌の方を当時の国民は愛しました...
人間はそんなにいつも元気よく勇ましくいられるはずがないのですから...。
同じ特攻について歌う軍歌でも山田耕筰の「壮烈特別攻撃隊」と古関裕而の「嗚呼神風特別攻撃隊」の感覚の違いは愕然とするほど大きい。おれは「嗚呼神風特別攻撃隊」を聴くとあまりのことに泣いてしまうのだが、「壮烈特別攻撃隊」はなんだかもうぐったりしてしまう....
だいたい国民は既に十分以上に頑張っていたのだから…
余談・山田耕筰の軍歌
以下の4曲などはちょっと聴いただけでうんざりだが、山田耕筰の軍歌はこんなようなのばかりなのだ...
山田耕筰の軍歌・戦時歌謡で一番のヒット作は「燃ゆる大空」だ(同名の映画の主題歌)。藤山一郎の歌唱。
歌詞はまあアレだが、メロディは爽やかで文句なしに素敵だ。歌詞のせいで埋もれてしまうには惜しいメロディ。
👇後年、藤山一郎がテレビでこれを歌った動画がある。なんて見事な歌声!山田耕筰のメロディの素晴らしさが本当によく伝わってくる。最高!
👇鶴田浩二も歌ってる。
これは録音が新しいので聞きやすいと思う。
「肉弾三勇士の歌」(1932)のレコードでは、山田耕筰チクルスの最後で取り上げる江文也が山田耕筰の指揮で歌ってる👇。彼はまずバリトン歌手として活動を始め、ちょうどこの録音の頃から山田耕筰、橋本國彦の元でも学び始めている。
南天の花
そして、終戦後は多くの人がそうだったように、軍国おじさんだった山田耕筰も180度変わりました。終戦後は平和を祈る曲をたくさん書くようになります。その変わり身の早さを非難する人も多いです。
それでも山田耕筰だって日本人なんですから、終戦後の焼け野原、長崎・広島の惨状を見て心を痛めなかったはずはないでしょう。本当に悲しかったと思います。猛烈な軍国オヤジになるくらいの愛国者だったんですから、そりゃあもうめちゃくちゃ悲しかったでしょう。それで気持ちも変わって平和を祈るようになります。
変わり身の早さを非難されても仕方ないです。どんなに非難されても変わるべきです。戦後、平和のための式典に曲を依頼されれば心を込めて書いたでしょう。当たり前です。彼は「音楽家」なんですから。ぼくは戦時中の山田耕筰の行動や文章の数々は本当に心の底から悔しく残念に思います。それでも、「南天の花」や前奏曲で表現された山田耕筰の祈りは心からのものだと信じてます。
山田耕筰が非難されたのは、性格的なところにも原因があったと思います。天才にはありがちですが、彼もまた性格的に問題があって身勝手でわがままな困ったちゃんだったんですよね、残念ながら...。よくあることですが....
ではまず前奏曲ト短調です お願いします。莉佳入場
前奏曲
南天の花は永井隆博士の詩です。1949年作。永井先生のことは朝ドラの「エール」でも出てきたし、ご存じの方も多いと思います。長崎の放射線科のお医者さんです。原爆で奥さんを失い、自分も被曝して白血病で苦しみながら被爆者たちを救う活動をした偉大な先生です。
わ被曝した永井博士の家の庭で咲いた「南天の花」を、亡くなった奥さんに見立てて博士が作った詩です。
永井博士は本当は「長崎の鐘」を山田耕筰に交響詩にして欲しいと思っていましたが、山田は耕筰なかなか書くことができませんでした。そこで山田耕筰は白血病で苦しむ博士へのお見舞いの花束のようなつもりで「南天の花」を作曲したんです。そしてこれを「ささやかな祈り」だと言ってます。
非常に感動的な作品です。
ではお願いします。
美穂子先生入場
南天の花:演奏。
カーテンコール
アンコール、さくらさくら、夢の桃太郎「夢路」(ピアノ独奏)順不同で
終演
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?