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プロコフィエフ・ピアノチクルスvol.4

[2015/07/26竹風堂大門ホール]

vol.4
みなさんようこそおいでくださいました。
今年のテーマは20世紀ソ連を代表する作曲家でありピアニストでもあるセルゲイ・プロコフィエフです。今日は4回目、ピアノは松浦香織さんです。ここまでプロコフィエフの9つのピアノソナタを順番に聴いてきましたが今日は第6番。半分以上きました。今日の後半に聴いて頂く6番のソナタは30分の大曲です。今まで聴いてきた5番までのソナタのどれよりも長い作品です。

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セルゲイ・プロコフィエフは1891年生まれの作曲家です。ロシアとゆーか旧ソ連を代表する作曲家ですが、初回にお話ししましたが、ウクライナ生まれなので正確にはウクライナ生まれの作曲家と言った方がいいのかもしれません。詳しく言いますとウクライナ東部のドネツク州のソンフォツカ村とゆーところです。今ウクライナは紛争が起こっていて事実上内戦状態にありますので、みなさんもよくニュースでウクライナのことは耳にされてると思います((2015年現在))。そのドネツクはかなり戦闘の激しいホットな地域なので、ニュースでもよく名前が出てきてますね。プロコフィエフもきっと草葉の陰で今のウクライナ情勢について案じていることでしょう。

「プロコフィエフ、帰国を考える」

さて、前回は第一次世界大戦やロシア革命が起こってしまったので、プロコフィエフは音楽院を一等賞で卒業したのに、ロシアは大戦と革命で音楽どころではなくなってしまって、彼は日本経由でアメリカに渡って、その後はパリに住むようになって、アメリカでやパリでほんとにもう必死にがんばったんですがこれがぜんぜんうまくいかなかった。とゆーお話でしたね。アメリカでは同じロシア系のラフマニノフやガーシュインもハイフェッツもみんな結構うまくやってるのにプロコフィエフは何やってもうまくいきません


パリでは金もない上にお母さんを介護して看取ったりして、頼りにしていたロシアバレエ団のディアギレフも亡くなっちゃったりする。そんなこんなで彼は鬱になったりもしました。しょんぼりです。文字通りどん底。

 そのあたりから今日はお話を始めましょう。芸術の最先端のパリや自由の国アメリカでも自分の音楽が全く受け入れられないプロコフィエフはだんだん里心がついてきてしまいます。無理もないですね。
ロシアは革命を成功させて「ソビエト連邦」という史上初の共産主義国に変わったのですが、彼の祖国への思いは変わることがありませんでした。
彼はソ連の友人たちに手紙を書いて祖国の現状、とりわけ音楽や芸術文化の状況についてリサーチし始めました。これが1920年代のことです。ロシア革命は1917年のことですから、まだそんなに時間は経過してません。

「ロシアン・アヴァンギャルド」

1920年代のソ連の文化的状況は意外と悪くなかったんです。いや、むしろ国全体が過去と決別して新しい状態になって、いろいろ大変だけど、みんなで新しい方向に進んでいこうよ!とゆー前向きな雰囲気に溢れてました。

思想的にも、政治的にも、文化的にも、異常な活力がありました。

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国全体、街全体が一大ページェント、巨大なアトラクションのようになっていたんですね。凄い盛り上がりでした。芸術家たちも思い切った新しい表現をするようになっていました。これが世に言うロシアンアヴァンギャルドです。例えば美術なら、マレーヴィチ、カンディンスキー。シャガールなんかもそうですね。構成主義 、シュプレマティズム...

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レーニンはスターリンと違って前衛芸術にもわりと理解があったようです

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こーゆー前衛芸術を「革命的だ」とか言って褒めてたらしいですよ。いい時代ですねえ。プロコフィエフがその状況を聞いて「帰ってもいいかなあ」なんて思っても、まあ、仕方ないのかな...とも思いますね。
そのレーニンは1924年に亡くなってしまって、その後はスターリン時代になるわけです。スターリンは前衛芸術は全く理解せず、容赦なく弾圧しました。ロシアンアヴァンギャルドが華やかで芸術的に良かった時代とゆーのはせいぜい1924年まで(スターリン登場まで)と見てもいいのです。

カンディンスキーもシャガールもそーゆーところには敏感で、スターリン時代の直前にはソ連を出てフランスやドイツに逃げて、もう帰ってこなかった。身の安全を守るとゆー点では非常に賢明です。
プロコフィエフはもし本当に祖国に帰りたいならパリでグズグズしてる場合じゃなくて、即座に帰るべきだったんです。でも家族のこともあったり、いろいろあってすぐに決断できなかった。この辺がプロコフィエフの政治的嗅覚のちょっと鈍かったところかもしれませんね。もし1920年代の初頭に帰れていたら、ほんの数年のことですけれども、それでもソ連の前衛芸術のいちばんいい時代に活動できたかもしれない。

ソ連としても国威発揚のために優秀な芸術家は喉から手が出るほど欲しい。だいたいこの時期は優秀な芸術家がどんどんソ連から出て行ってしまっていて、ソ連は才能が流出しっぱなしでした。

「お試し帰国 / 謀略」

プロコフィエフは完全帰国の前に2回、ソ連に一時帰国してます。プロコフィエフはパリに居ましたから、西側の資本主義国がソ連を警戒して、反ソ連キャンペーンが広まっていることも十分に承知してました。でも、そーゆー中で大変な困難に直面しながらも、愛する祖国が史上初の新しいスタイルの国家を打ち立てようとしつつあるという状況を、故郷へのノスタルジーもあって、実際に見てみたいと考えていたんです。このノスタルジー、祖国への懐かしい思い。ここが難しいところです。これがあるのでちょっと目が曇るんでしょうね。仕方ないです。

奥さんのリーナも夫の祖国を見てみたいとゆーので、同行することにしました。プロコフィエフ は20年ぶりの祖国ですから異常な興奮状態でした。
プロコフィエフがソ連に戻るとそりゃあもう、大歓迎。懐かしい人達もみんな会いに来てくれる。涙・涙。感動的です。この大歓迎の背後には当然共産党当局が周到に張り巡らした仕掛けや演出があるわけです。天才作曲プロコフィエフをソ連に取り戻すための謀略です。プロコフィエフのモスクワやレニングラードの演奏会にお客さんは熱狂し、新聞も「これはもはや大事件だ」などと書き立てました。彼がどこに行ってもどんなど田舎に行っても人々は大変な熱狂状態で迎えてくれます。絶対にクラシックなんて知らないような田舎のおじいちゃんまでプロコフィエフを優しく抱きしめてくれるわけ。で、みんなが「ロシアに帰ってきて!」と言ってくれる。さすがにこの辺で「え?なんかおかしい?」と思わないといけないですが、もう彼はあまりのことに感激しちゃってダメなわけです。奥さんのリーナまで感極まって涙を流す。彼女はスペイン系の人で国際的な人だったので旦那よりは客観的なはずなんですけどね...。この歓迎攻撃にはすっかりやられちゃった。共産党、さすがです。謀略慣れしてる。夫妻が行く先々で受けた歓迎はもちろん全て共産党が絡んでいるでしょう。行った先でも当時のソ連の悲惨な現状が見えないように巧みに「配慮」していたでしょう。この時期はコルホーズが失敗してプロコフィエフの故郷のウクライナは歴史的な飢餓状態にありました。1000万人が餓死したと言われてます。

そこらへんの道端で普通に人が死んでる。あまりの飢餓で人肉食の悲劇まで起きた。有名なホロドモールですね。とんでもないことです。例えばこういったネガティヴな情報をプロコフィエフに知らさないように、当局は細かく配慮したはずです。
で、そんな中でプロコフィエフの一家は雄大な美しい自然の中の美しい別荘を「ここでひと夏心おきなく創作活動に励んでください」と気前よく提供されます。もちろん奥さんも子供も大喜び。
当時イタリアに居たロシアの誇る世界的な作家ゴーリキーも同じようなことをされてます。

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ゴーリキーもプロコフィエフと同じように感激しちゃって、それでソ連の国家建設の素晴らしさを謳いあげる紀行文を発表しちゃったりする。ザ・プロパガンダです。共産党の罠にはまってしまった。ゴーリキーはソビエト作家同盟を設立し、その議長に就任するなど、完全にスターリンの盲信者になってしまいました。


「プロコフィエフ、完全帰国」


プロコフィエフは完全帰国を決意しました。奥さんも子供たちも大賛成でした。1936年。彼はついにパリを引き払ってソ連に完全帰国しました。44歳のときです。

とんでもないときに帰ってきてしまいました。なんでこんなときに帰ってきてしまうのか。どうしようもない時期です。ソ連はレーニンが亡くなって1930年にはスターリンがトロツキーやキーロフといった実力者をどんどん殺して完全に実権を握ってました。

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強烈なテロの時代が始まっていたのです。スターリンの粛清でどんどん人が死んだ。暗殺だったり、死刑だったりいろいろです。むちゃくちゃでした。最初は政治家や軍人がターゲットでしたが...範囲はどんどん拡がる。


1936年、プロコフィエフが帰国した頃には芸術も完全に自由を奪われて、スターリンの意に沿わないことはできなくなっていました。独裁と恐怖政治です。1936年は音楽の分野でいわゆる形式主義批判とゆーのが始まった年です(プラウダ批判)。ショスタコーヴィチが酷い目にあったことで有名です。

前衛的で冒険的で実験的でわけのわからない音楽を書いてはいけない!労働者や農民にも、誰にでもわかりやすい音楽を書かなければならない!とゆー批判ですね。そうでないものを書いてスターリンに目をつけられるとまず社会的に抹殺されて、ひどい場合には反革命的、反共産主義的だとゆーことで収容所送りになったり、最悪の場合は粛清される恐れがあった。作家のゴーリキーも暗殺されたのではないかと言われてますし、ソルジェニーツィンが1945年に収容所に送られたのは有名ですね。

プロコフィエフの妻のリーナも後にスパイ容疑で収容所に送られました。
プロコフィエフが完全帰国した翌年の1937年からはもう何でもありの大テロル狂乱の時代が開幕します。もう安全な人はソ連にはひとりもいません。もう殺す殺す。粛清の嵐です。大粛清時代。スターリンは殺して殺して殺しまくった。

♫3つの小品Op96


さて、ここで小品を聴いていただきましょう。ワルツです。プロコフィエフが帰国してしばらくしてから書かれたオペラと映画音楽の中のワルツをピアノ用にアレンジした「3つの小品Op96」です。

狂乱のテロの時代に書かれた作品です。1曲めはオペラ「戦争と平和」の中のワルツです。👇は作曲者自身の演奏です。貴重。

「戦争と平和」はもちろんトルストイのオペラ化ですね。

2曲目と3曲目は未公開に終わった映画「レールモントフ」のために書いた音楽を元にしています。レールモントフってのはロシアの有名な詩人ですね。この人はかなりドラマチックな生涯を送ったので映画にしやすいでしょう。(傲岸不遜で、決闘して投獄され、流刑地に送られたりとか)。

レールモントフが自己を投影した小説「現代の英雄」は2006年にアレクサンドル・コット監督で映画になってます。

プロコフィエフはソ連に帰国してから映画の仕事も積極的にしていて、重要な仕事も多いです。

名匠セルゲイ・エイゼンシュテインとの「アレクサンドルネフスキー」は、超!オススメ。超娯楽大作。映画史に残る名場面・氷上の大戦闘シーンは凄まじいです。

プロコフィエフの音楽は言うまでもなく最高。

めっちゃおもしろいので、ぷろ子好きなら必見の映画です。

昔の映画なので1000円くらいでDVDが買えます。

休憩

♫ピアノソナタ第6番Op.82

さて、後半はソナタ第6番です。ヴァイオリンソナタ第1番Op.80と作曲時期が完全に重なってます。ヴァイオリンソナタ第1番Op.80は傑作です。ぼくはプロコフィエフの室内楽作品の中でこれがいちばん好きです。

プロコフィエフは1936年に完全帰国しましたが、もう世の中スターリン時代で最悪でした。最初は良くしてくれた共産党もすぐに冷たくなります。国外に出ることも全く許されなくなります。一度帰ってきたらもうこっちのものですからね。

一時はソ連への帰国に賛成した奥さんのリーナも、さすがにソ連がとんでもないことになってるってことに気がついて、夫を責めたてます。「どうしてこんなヒドイ国にあたしを連れて帰ってきちゃったのよ!」ってことですね。一時は自分も賛成したくせに責めるなんてヒドイと思いますが、まあ、そうしたものですよね。で、2人はこのことで言い争いが絶えなくなって夫婦仲が険悪になって、離婚することになってしまう。プロコフィエフは別の女性と暮らすようになります。

私生活もむちゃくちゃでしたが、時代も完全に第二次大戦の方に向かっていてむちゃくちゃになってくる。ナチスの脅威がソ連に迫ってきた。第二次大戦は日本も参戦してますが、大戦の本流はドイツとソ連の「独ソ戦」です。つまりヒトラーとスターリンが中心。このふたつの国を中心にいろんな国が巻き込まれていったとゆーのが第二次大戦ですね。1939年にドイツが西からポーランドに侵攻してソ連も東からポーランドに侵攻します。当時ポーランドはフランスとイギリスとの間で安保条約を結んでいたので。フランスとイギリスがドイツに宣戦を布告して第二次大戦が始まります。

こんな状態の中で書かれたのがこれから聴いていただく第6番のソナタです。大戦中に書かれたソナタの第6、7、8番の3曲は「戦争ソナタ」と呼ばれてます。この3曲はプロコフィエフの作品の中でも特筆すべき名作です。世の中もプロコフィエフの私生活もむちゃくちゃでしたが、作品は素晴らしいものばかりなんです。あまりにむちゃくちゃすぎて、ただひたすら仕事に没頭(逃避)するしかなかったのがいい結果を生んだのかもしれません。3曲の「戦争ソナタ」はもちろん、交響曲第5番もそう、ヴァイオリンソナタの第1番も第2番もそう。バレエの「シンデレラ」、オペラ「戦争と平和」...もうとんでもない傑作ばかりです。

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