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アイヴズ/答えのない質問

2001年に書いた解説をweb用に大幅に加筆修正してます。


 答えのない質問

 チャールズ・アイヴズは1874年にコネティカット州ダンベリーに生まれ。1954年ニューヨークに没したアメリカの革新的作曲家です。

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アイヴズは、シェーンベルクよりも早く無調音楽に足を踏み入れ、4分音、多調、クラスター、引用、コラージュ...etc.といったありとあらゆる先鋭的な実験的手法を他のどんな作曲家より早く取り入れました。しかしアイヴズは「不協和音のために飢えるのはまっぴらご免だ」と言って生命保険業界に入り、Ives & Myrickの副社長を務めました。彼のすべての作品はそうした彼の多忙なビジネスライフの間に作曲されたものです。いわゆる兼業作曲家ですね。彼が残したほとんどの作品は長く忘れ去られ、ようやく、約半世紀の後にその真価が再発見されました。彼の作品は前衛的なものですが、その音楽はその前衛性に反するかのように、どこか懐かしく優しく、温かい独自のヒューマニズムに満ちています。作品にはさまざまなアメリカの民俗音楽(讃美歌、愛国歌、民謡)の要素が含まれます

アイヴズは音楽で生計を立てる必要がないので、聴衆の受けも、出版社の意向も、演奏者たちの顔色も、自分の芸術的評価も、自分の生活のことも特に気にする必要がなかったんです。それが幸いしたんでしょう。完全に自己完結した世界で何も気にせず自由に書くことができた。ただ、恐ろしいことにアイヴズは天才でした。だから何の歯止めもなく書き続け、結果的にものすごい領域にまで達してしまった。現場感覚が欠如したアイヴズの書く作品は演奏至難な場面がけっこうあったりする(複雑すぎたり、出ない音を書いてしまっていたり....)。何しろ交響曲第4番の全曲初演(1965)をストコフスキーが指揮したときはあまりに複雑すぎてサブの指揮者が二人必要だった(動画があります。29分から見て下さい。)。全曲初演から10年後くらいに小澤征爾先生がこれを一人で完璧に振って録音してしまった時にはみんなぶったまげた。超高度な指揮技術と完璧なソルフェージュ能力がないとできない。オケ側の能力も10年でだいぶ変わっただろうがそれにしても....そうそう、昔N響で岩城宏之先生がアイヴズの4番やった時には小松一彦先生が副指揮だった。当時テレビで見た。岩城先生は 一人で振れるけど、副指揮がいた方がお客さんがおもしろかろう とゆーことだったらしい。

まあ、シュトックハウゼンの「グルッペン」みたいなのもあるけど、あれはそもそも3群のオケと3人の指揮者って前提で書かれてる。でも、アイヴズの場合はそーゆー「前提」とか特にないわけだから(^◇^;)

さて寄り道はここまでにして「答えのない質問」ですね

この作品は1906年に作曲されました。アイヴズ、32才の時の作品です。弦楽がゆっくりと変化する和音を演奏し続けます。これは 「ドルイド人たちの沈黙 -何も知らず、何も見ず、何も聞かない」 を表しています。                                                     トランペットが「人間実存に関する永遠の質問」を7回くり返します。  フルートたちが答えを探しにかかり、その音は次第に高くなり、熱を帯びてきます。しかし、「質問」には答えられないまま、あきらめて消え去り、「質問」が最後にもう一度発せられると、弦楽が無へ消えていく.... と、そんな構造の作品です。うう〜ん、哲学的〜。しかし何という美しさ!
 この作品には原典版(1906)と改定版(ca.1930-35)の2つの版が存在しますが、今夜は改訂版による演奏です(2つの版はそんなに大きく違いません)。1906年当初は「宵闇のセントラルパーク」とともに「2つの瞑想」として作曲されましたが、今は独立した作品になっています。弦楽は四重奏でも合奏でも可、トランペットはイングリッシュホルンでも可、4つのフルートの第3フルートはオーボエでも可、第4フルートはクラリネットでも可とされていて、いろんな形態での演奏が可能になっています。おれはやっぱり管楽器はTrp1/Fl4のまま演奏するのが良いと思うし、弦楽も合奏の方がサウンドに広がりがあっていいなと思います。


余談:宵闇のセントラル・パーク

「宵闇のセントラルパーク」も「答えのない質問」と同じ1906年の作品。構造的には似てますが、より複雑になってます。当初は「答えのない質問」と一緒に「2つの瞑想」の一曲として書かれました。また「3つの屋外の風景」の内の一曲にもなってます(「ハロウィン」&「」&「宵闇のセントラルパーク」の3曲セット)。ちょっと混乱しますけど、今は質問と宵闇を「2つの瞑想」として演奏することはあまりないし、どちらも単独で認識されることが多いので問題ないでしょう。「宵闇のセントラルパーク」は「3つの屋外の風景」の内の一曲でもあるんだな、とゆー程度の捉え方で十分だと思います。

弦楽器は10小節のフレーズをpppで10回繰り返します。その上に様々な音響が登場して、消えていくという形になっています。強いて言えば10の変奏曲とも言えるでしょう。もちろん伝統的な変奏曲とは全然違うんですが、グラウンドベース上で展開される変装形式のパッサカリアやシャコンヌに考え方としては近いですね。無茶苦茶に聴こえるようでいて、実はしっかり形式に則っているところが凄い。まあ、そうじゃないと単なる無茶苦茶にすぎないわけですが...

アイヴズはこの作品について、「30数年前(エンジンやラジオが大地と空気を独占する前)、暑い夏の夜にセントラル・パークのベンチに座っていたときに、人間が聞いていた自然の音や出来事の音を、音の中に描いたもの」としています。

ピアノと管楽器で行われる音楽は、当時流行の酒場の音楽です。ニューオリンズ・ジャズの音調をベースにしていて、ピアノはほとんど闖入してきたような感じで陽気にラグタイムを弾き始めます。そしてそれぞれの音楽がぶつかり合って、結果的に多調音楽の先駆けにもなっています。弦楽器がセントラルパークの夜の空気だとすれば、その中で時間が来ればあちこちの酒場が開店して店のミュージシャンたちが音楽を奏で始めたのだとしても、それはそれぞれのお店の都合だし、それぞれのミュージシャンの勝手なのですから、あちらの店ではムーディーなジャズ、こちらでは陽気なラグタイムが鳴るのは実生活ではごく普通のことです。そこにはまた道路で酔った客が歌う愛国歌や、路地裏で夜の女が低く口ずさむ讃美歌が混じってくるかもしれない。車がクラクションを鳴らすかもしれないし、消防車がサイレンを鳴らしながら通りかかるかもしれない。ストリートパレードが通りかかることもある。それらはお互いに何の関係もありません。でもセントラルパークの宵闇の空気感だけは共通しているんですよね(つまり弦楽で繰り返す10小節のフレーズです)。この作品は、そーゆーごく普通のセントラルパークの日常の音風景をそのまま切り取って音楽作品に仕立てようとゆー試みなのです。よく考えてみれはごく自然な日常の音感覚です。でも、伝統的な音楽の考え方からするとこれは超前衛だったりする。

小澤先生の超見事な動画をぜひご覧ください。途中複雑な場面になると、指揮台おりて管楽器セクションの前まで行って降ってます。そこからは実質的にコンサートマスターが弦セクションをリードしてるのがよくわかります。




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