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ドビュッシー・ピアノチクルスvol.3


2008年9月28日竹風堂大門ホール
ピアノ:奥村美佳


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ハイドン:ピアノソナタ へ長調 Hob.XVI:23

 本日はようこそおいで下さいました。今回はドビュッシーのチクルス全6回の、第3回めのレクチャーコンサートになります。今回のチクルスは、作曲年代順にピアノのための作品を聴いていただきながら、ドビュッシーの生涯を順番にたどってみよう、ということになっております。今回はちょっとした趣向として、ドビュッシーの作品の他に、今聴いていただいたように、ハイドンのソナタを1曲ピアニストのみなさんに選んでいただいて、弾いていただくことにしてます。

更に、ドビュッシーが作曲した「ハイドンをたたえて」という小品をアンコールで弾いていただいて、演奏会を締める、ということになっております。

これは、ハイドンつながりとゆーことで、まぁ、洒落ですね。


 今回は、「版画」、「仮面」と「喜びの島」を聴いていただいて、年代としてはだいたい1899年から1904年くらいですから、だいたいドビュッシーが37歳から42歳の頃。今どきの言い方ですと、

まさに『アラフォー』の時期のお話をさせていただくわけです。

#「版画」


前回第2回で扱った10年はだいたいドビュッシーの30歳代の頃に重なります。10年間もの間に、「ベルガマスク」と「ピアノのために」の2曲だけなんて少ないんじゃないかと思われるかもしれませんが、ドビュッシーはこの時期にだいたいそのくらいしか主立ったピアノ独奏曲を完成させていないんです。ドビュッシーはすごく達者なピアニストでもあったのに、ピアノ作品にはほとんど興味を示していないように思われる。では、何をしていたかといいますと、この間まずオペラの作曲にひたすら没頭しておりまして、これに相当時間を取られてます。「ロドリーグとシメーヌ」というオペラ(未完に終わりましたが)に数年費やしたあとは、有名な傑作オペラ「ペレアスとメリザンド」にひたすら没頭。それ以外にはかの有名な「牧神の午後への前奏曲」や「夜想曲」といったオーケストラのための傑作、それから室内楽では、これも大傑作ですが弦楽四重奏曲 ト短調を作曲しいるのですが、まぁ、ひたすらオペラに没頭した10年だったと言ってもいいでしょう(マラルメの詩による「牧神の午後への前奏曲」と1902年に初演されたメーテルランクによる記念碑的な傑作オペラ「ペレアスとメリザンド」。この2作について、とりわけ「ペレアス」については、沢山語りたいのは山々なのですが、今回はピアノ作品のチクルスということですので、詳しくお話しできないのが非常に残念です。)。第1回で扱った青春時代も、やっぱりピアノ作品には目もくれず、歌曲ばっかり書いていました。つまりドビュッシーはオペラとか歌曲などといったテクスト、つまり歌詞を伴った声楽作品に40になるまで延々と集中していたことになります。ドビュッシーは音楽家でもありましたが、同時に文学にも非常に造詣が深かったんです。音楽家と同じくらい文学者との交流も広く、そして深かったのです。

それはもう、文学青年というよりはほとんど文学者と言ってもいいくらいで、実際にドビュッシーは30代の終わりくらいから評論家として文章も書くようになります。

この辺の感じはシューマンやリストにちょっと似てるかもしれませんね。
 そんなわけで、ドビュッシーが本格的にピアノ作品をある程度のペースで書き始めるのは、今日聴いていただく「版画」「仮面」「喜びの島」あたりが作曲された時期以降、つまり「ペレアス」の初演以後ということになります。「ペレアス」の成功で文学好きとしての自分にある程度満足した結果、40歳にしてやっとピアニストである自分に気づいたといったところかもしれません。この時期以降から傑作がどんどん生み出されていきます。前回聴いていただいた「ピアノのために」は、「版画」のわずか2年前の作品です。この2曲の差は非常に大きいです。「版画」に見られるピアニスティックな書法や音楽表現の拡大は、やはり驚異的なものがあります。また、ドビュッシーがはっきり映像を喚起させるようなタイトルをつけた最初の作品としても「版画」は重要です。

一曲めの「塔」は、ドビュッシーが東洋の音楽などから得た刺激や影響から作曲されました。当時のヨーロッパはジャポニズムまっさかりで、浮世絵が大きな影響を与えるなど、東洋趣味が大流行でした。ドビュッシーにとっていちばん大きな出来事は間違いなく1889年、27歳の頃にパリで開かれた万国博覧会だったでしょう。彼はそこでジャワのガムランを聴きます。


ドビュッシーが「パレストリーナの対位法ですら、ジャワの音楽のそれと比べれば、子どもの遊び同然である」と述べるほど、その音楽体験の衝撃は大きく、その後ドビュッシーの音楽は伝統的な和声法や対位法から更に自由に解放されていくわけです。この「塔」という作品にはその体験が極めて直接的に表現されていると言っていいと思います。2曲めの「グラナダの夕暮」は、まさにタイトルの通り。ハバネラのゆったりしたリズムに乗ってスペインのグラナダ地方の夕暮れの情景が描写されます。夕暮れの空気感や、湿度、色合いまでも伝わってきそうな見事な描写で、スペインの国民的作曲家ファリャもこれを聴いて感激し、絶賛しています。ドビュッシーはこの少し前に「リンダラハ」というこれまたスペイン風の2台のピアノのための作品を書いていて、これまた実に見事な作品なのですが、実はドビュッシーは、グラナダはおろかスペインに足を踏み入れたことすらなかったのですね。すごいです。ドビュッシ-は手紙でこのように述べています。
「ピアノ曲を3曲書きました。題名が気に入ってます。『塔』『グラナダの夕暮れ』『雨の庭』といいます。自前で旅に出るわけにいかないのなら、想像力をはたらかせるしかありません」
3曲めは「雨の庭」ですね。これは「ピアノのために」のプレリュードと良く似てますね。1曲めはアジア、2曲めはスペインでしたが、3曲めの「雨の庭」は明らかにフランスを舞台にしてます。というのも、非常にポピュラーなフランスの童謡「ねんね、ぼうや」と「もう森へは行かない」の2曲が実に巧妙に音楽のなかに織り込まれています。「もう森へ行かない」は『だって耐え難い天気だから』と続きます。フランス人だったら、この引用はたぶんすぐにわかるでしょう。ここから容易に推測されるのは、1人の子どもが、子ども部屋から雨の庭を見ているという光景です。「もう森へ行かない」はドビュッシーが好んだ童謡で1894年のピアノ独奏用の作品「忘れられた映像」の第3曲、管弦楽のための「映像」の『春のロンド』にも引用されてます。ではみなさんも想像力を働かせて、ドビュッシーと一緒に旅に出るようなつもりで、お聴き下さい。

=休憩=

後半は1904年に作曲された2つの作品を聴いていただきますが、その前にこの頃ドビュッシーが何をしていたのか、お話ししておきたいと思います。1898年12月、36歳のドビュッシーは長年連れ添った同棲相手ギャビーと別れたのですが、翌1899年4月にはすぐに次の恋愛に夢中になります。40歳くらいまでのドビュッシーは、はじめての恋愛からして人妻との不倫、その後も浮気などを日常的に繰り返す生活で、女関係のむちゃくちゃさには定評のある男ですから、わずか4ヶ月で他の女性にのめりこむなんてのは、別に何の不思議もありません。相手はリリー・テクシエという女性で、パリの婦人服屋のマヌカンをしてました。残っている写真で見るかぎりは、すごくキュートな子ですね。かわいい。で、1899年10月にこの2人は結婚しました。教会で式をあげるお金がなかったので、ピエール・ルイスやエリック・サティなど数人が証人になって市役所での地味な結婚式でした。ドビュッシーは相変わらずお金がなく、しかも新妻のリリーが病弱で薬代がかさんだりで、かなり苦しい新婚生活だったようです。でも、リリーは病気がちではありましたが、お金のないなかで美食家の夫のために工夫して美味しい料理を作り、家の中をきれいに整え、夜中に作曲をする夫の昼の眠りの邪魔をしないようにするなど、彼女なりに精一杯ドビュッシーに尽くしました。いい子ですねぇ。ちょうどこの頃にドビュッシーが没頭していたオペラ「ペレアスとメリザンド」が1902年に初演され、これが成功を収めた結果、1903年(前半の版画が完成した年ですね)には政府から勲章を授与されるということになります。レジオン・ドヌール五等勲章です。五等とゆーのはシュヴァリエ賞とゆーことですね。日本人もいろいろ受賞してますが、例えば北野武さんとかね。余談はいいとして、この叙勲はドビュッシー自身はもちろん、陰で夫を支えてきたリリーもさぞうれしかったでしょうね。しかし、ここでまた問題が発生します。エンマ・バルダックという女性の出現です。エンマはドビュッシーと同い年で、非常に裕福な銀行家の妻で、子どももいました。非常に美しく、知的で教養があって、歌も非常に上手かったそうです。フォーレも彼女に魅了されてヴェルレーヌの詩による「優しい歌」を作曲していますし、かわいがっていた彼女の娘エレーヌのためにピアノ連弾のための「ドリー」を書いています。若くてかわいい下町娘のリリーとは対照的なエンマ・バルダックに、ドビュッシーの気持ちは急速に傾いてゆきますが、表面上は平穏なリリーとの生活はしばらく続きます。頭の中ではちゃんとリリーにしっかり別れ話をしなければならないと思っているのに、これができない。口説くときは元気よくちゃんとできるのに、こーゆー場面になると優柔不断になってしまうのはドビュッシーの常なのですが、まぁ、世の中の男はみんなそうかもしれませんね。いかがですか?で、1904年の夏、何も言えないまま、ごく普通の夫のようにリリーを実家に送り出し、そのままドビュッシーはエンマとイギリス海峡のジャージー島に旅立ってしまうわけですね。ダブル不倫旅行です。ここでドビュッシーはこれから聴いていただく「仮面」と「喜びの島」を書いていたわけですね。で、ジャージー島にいる間もちゃんと話をすることができず、結局リリーとちゃんと別れ話をしたのは9月にパリに戻ってからになります。ちょっと優柔不断も度がすぎますね。リリーは10月にピストル自殺をはかってお腹を打ち抜いてしまうのですが、幸い一命をとりとめます。同情はリリーに集まり、ドビュッシーの周囲からも友人がどんどん離れてしまう。離婚は難航しましたが、非はすべてドビュッシ-にある(当然です)とゆー結論でようやく離婚が認められることになります。

#「仮面」

では、「仮面」(マスク)を聴いていただきましょう。ギターをかきならすように始まるこの曲は、前回詳しくお話ししましたが、ドビュッシーがのめりこんでいたヴェルレーヌの「艶なる宴」や画家のワトーの世界ですね。16世紀中頃から始まったヴェネツィアの仮面劇コメディア・デラルテを題材にした世界です。ピエロ、アルルカン、パンタロンにコロンビーヌといった登場人物が滑稽な演技で観客を笑わせますが、その派手な扮装や仮面の下では暗く悲しげな表情をしている、というような世界観ですね。ベルガマスク組曲や小組曲の系列に連なる作品です。ピアニストのマルグリット・ロンが伝えるドビュッシーの言葉によれば、「仮面」の真意は『人間存在についての悲劇的な表現』ということです。ダブル不倫でのめくるめくような恋愛と、妻の自殺というものすごい環境にあった人物の言葉ですから、かなり含蓄のある言葉ですね。では、聴いていただきましょうか。

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