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山田耕筰ピアノチクルス(全6回)​vol.4山田耕筰III

2022/09/03長野市竹風堂大門ホール

ソプラノ・小橋麻美

ピアノ・小井土愛美


本日はご来場ありがとうございます。今日の前半は代表作「からたちの花」を中心に、後半は約30分の大作「芥子粒夫人(ポストマニ)」を聴いていただくことになっています。

「からたちの花」、有名ですね。山田耕筰もこれにすごく愛着があって、同じ歌詞で「からたちの花II」も作っていますし、「からたちの花」によるピアノ曲も書いています。1928年の作品です。最初に、このピアノのための「からたちの花」を聴いていただきます。原曲を素材にしてかなり自由にパラフレーズかファンタジーのように書かれてます。これは作詞者の北原白秋に捧げられています。


[ピアノ独奏]
ピアノのための「からたちの花」(1928)



ではまず、かえろかえろと です。

かえろかえろと(1925) 詞:北原白秋


各連のラストの部分はわらべうた「かえるが鳴くから帰ろ」がうまく生かされています(白秋のちゃっきり節にも出てきますね。あれは "きゃあるが鳴くんで雨ずらよ"って調子ですが)。白秋の詩が既に、そもそも非常に音楽的なのです。三木露風の「唄」の蝶々と同様に、この曲もそーゆー既存のものの使い方(引用)が実にうまいし、洒落てます。

からたちの花ll  (1927) 詞:北原白秋

からたちの花の二年後に同じ歌詞でもう一度作曲したのが「からたちの花II」です。この時期に耕筰が準備していた「童謡百曲集」に入れようとして作曲したものと思われます。この歌詞に愛着があったんですね。歌唱が異常に難しい「からたちの花」を、易しくして子供でも歌えるようにしようとしたんでしょうね。長さも3ページから1ページになって、音楽的にも非常にシンプルになっています。これなら子供でも歌えるでしょう。あまり歌われない曲ですが、ちょっと惜しい気もしますね。

鐘が鳴ります  (1923) 詞:北原白秋

「ゆるき民謡の流れにのりて」と指示されている通り、非常にゆったりとした歌です。民謡の歌い方が絶妙な匙加減でクラシカルな芸術歌曲に導入されています。民謡の節回しを使ってこれでもかとゆー具合に、高い歌唱技術が発揮できるように書かれています。
この作品はプラトン社の女性雑誌「女性」で発表されました。からたちの花やポストマニもこの雑誌に発表されたものです。女性向けの総合雑誌みたいなものでしょう。かなり高級志向ですね。当時は「赤い鳥」のような児童雑誌だけじゃなく、女性雑誌もどんどん出てきた時代です。平塚らいてうの「青鞜」が出てからですよね。「婦人公論」や「主婦の友」もこの時期の創刊です。ちなみに平塚らいてうと松井須磨子は山田耕筰と同い年です(1886年)。そーゆー時代だったんです。

 ピアノのパートにも注意して聴いてみてください。お寺の鐘の音がずっと聴こえていますよ。

では、かえろかえろと、からたちの花II、鐘が鳴りますを聴いてみましょう
その後、そのままピアノのためのポエムを聴いていただきます。ポエムはここまで聴いて頂いた有名でわかりやすい作品とは全く感じが異なっています。ロシアのスクリャービンの影響下で書かれた謎めいた感じの曲です。わかりやすい音楽ではないですが、とにかく途方もなく美しい作品ですので、色彩豊かなモダンアートの絵画でも観るような気持ちで色彩を浴びるような気持ちで聴いて下さい。ああ綺麗だな〜とか思ってるうちにすぐに終ってしまいますので、どうか、ご心配なく!

ピアノのためのポエム



からたちの花 (1925)北原白秋

そして、からたちの花ですね。北原白秋の詩は1924年に「赤い鳥」に発表されました。翌年1925年1月10日朝にわずか30分で一気に作曲されました。山田耕筰と北原白秋のコンビの特に有名な作品です。この曲の楽譜も後半に聴いていただく「ポストマニ」と同様にプラトン社発行の女性雑誌「女性」に掲載されています。この年のうちにソプラノの荻野綾子が山田耕筰自身のピアノで録音して、大ヒットしました。

山田耕筰は次のように述べています。

「まだ幼かった私は未明から夜半ちかくまで活版職工として労働を敢えてしなければならなかった....私は十才にもみたなかったその頃を思い起こします。それは本当に健気な、又いぢらしい小さな私でありました。私のいた工場は広い畑の中に建てられていました。そして、その広い畑の一隅は、からたちで囲まれていました。働きの僅かな閑を盗んで、私はどれ程このからたちの垣根へ走ったことでしょう。そして、そこで幾度か深い吐息をついたことでしょう。あの白い花、青い棘、黄金の果実 ー いま、私は白秋氏の詩のうちに私の幼児を見つめ、その凝視の底から、この一曲を唄い出たのであります。」

思い入れが強いんですよね。

からたちの花

これは「赤い鳥」を代表する楽曲になって、後に文部省唱歌にも採用されました。しかし、これは童謡/唱歌として子供が歌うには技術的に難しすぎます。 大人でもこの曲を歌いこなすのは超難しいです(いや小橋さんにプレッシャーかけてるつもりはないですよ。ただ事実を述べてるだけなので、悪しからず(^◇^;) )。とにかく超難曲です。山田耕筰も次のように言ってます。

「 これは私の曲のうちで最も大衆に親しまれているものだが、最もむずかしい曲の1つでもある。 難しい点は、この曲が極めて単純に書かれてあるばかりでなく、話し言葉と、 言葉の家に眠る旋律を呼び覚まして書かれているからである。全く自然に口をついて出る邦韻、そのままのふしだからである」

童謡とか唱歌の枠から大きく外れた、100%以上大人向けの極めて難易度の高い「芸術歌曲」です。 歌曲としては異常に難しいものですが 北原白秋の詩は「赤い鳥」に掲載して いるので テクスト としてはやはり 「童謡」としか言いようがないのです。でもこれもやはり童謡の精神で・童心を基本にして書いたからここまでの傑作になったんでしょうね。山田耕筰の歌曲には童謡と大人向け芸術歌曲の境界が曖昧なものが多いのが特徴です。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「杜子春」と似たような在り方と言えるかもしれません。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」モーツァルトのハ長調のソナタKV545なんかもそう言えるでしょう。

これほどまでにテクストと一体化した音楽も珍しいです。ほとんどが一音節対一音符で書かれ、リズムは弾んだりせず、一箇所以外はテクストをただ読むように淡々と八分音符が並んでゆく…。歌の楽譜としては異常なまでに抑揚がなく淡白で平面的にさえ見えますが(強弱記号・表情記号は多いですけどね)、いざ音にすると音楽と共に豊かなテクストの情感がごく自然に溢れてくるのは、本当に奇跡的です。実際に丁寧にこの詩を音読してみると、それだけでもほとんど山田耕筰の曲みたいになってるんじゃないかと思いますよ。それはつまり、作曲者が述べている通り、白秋のテクストにそもそも内在する旋律を「呼び覚まして」いるからなんですね。でも、これは誰もができるかとゆーと絶対にできない。天才だからできたんです。やっぱりテクストへの寄り添い方が半端ないんです。その圧倒的なさりげなさと詩を扱う繊細で丁寧な手つきはただひたすら感動的です。

詩の面での特徴は「あ」行と「お」行の多さが目立つことでしょう。
「からたちの花」という言葉だけでも、「ち」以外は全部「あ」行です
最後はほとんど必ず「よ」です。だから白秋が「丸い」をあえて「まろい」にしていることにも注意が必要です。喉や口内が締まりがちな「う」「い」の少なさ…
こーゆー言葉の選び方が、この作品の明るさと伸びやかに繋がっているんですね。

からたちはトゲがあって防犯に役立つので昔は生け垣によく使われていたようですね。


 ペィチカ(1923) 詞:北原白秋

ふつうは「ペチカ」と言ってますが山田 耕筰は「ペィチカ」と書いてます。小さいイが入ってます。これは白秋ではなく耕筰のこだわりです。わざとロシア語風にしたんです。北原白秋の詩はごく普通に三文字全角で「ペチカ」です。ペチカはもちろんロシア式の暖炉兼オーブンのことですね。ロシアでは寒いのでペチカの上で寝たりするらしいですよ。寒いですからね。

ペチカ



待ちぼうけ  (1923) 詞:北原白秋


待ちぼうけもペチカと一緒に作られた作品です。どちらも、満州に関係する曲です。満洲の風土にちなんだ格調高い教材がほしいという満洲教育會の依頼によって作られたんです。かなりプロパガンダ的で国策的です。「待ちぼうけ」のお話は中国のお話(『韓非子』の中にある説話「守株待兔」)が元になってます。だから、ここで言う「野良・きび畑」は日本のじゃなくて中国のきび畑です。満州で育った子供たちには、文部省唱歌で歌われる内地(日本)の風物に実感が持てません。そこで、現地の風物を織り込んだ歌が欲しいとゆーことだったんです。r当時はものすごく日本人も多かったんですよね。遼東半島はこの時期事実上「日本」でした。大連もハルビンも日本人が多かった。...そして、満州国が建国されて領土も人口も爆発的に拡大することになるんです。山田耕筰も北原白秋もこの時期の満州を実際に訪れていて、更に満州との関係を深めていきます。

満州

当時の満州には白系ロシア人も多かったから、ロシア文化も色濃く混入していた。特に大連やハルビンなんか独特な情緒で有名な国際色豊かな街です。亡命したロシア人音楽家もいたので、西洋音楽も盛んでした。

そうそう、ハルビン料理なんか調べるとめっちゃ独特で美味しそうですよね。ハルビンは交通の要衝として、ロシア人を初めとして人口が急激に増加し、ロシア風の建造物が次々と建設されました。中国人、朝鮮人、日本人、ロシア人、モンゴル人が混在して、それらの文化もごった煮的にミックスされて超独特な多民族文化が育っていたんです。ヨーロッパ的な街の中をチャルメラを吹き鳴らしながら馬車が走っていくんですよ。いやあ凄いなあ…。このチャルメラが待ちぼうけの冒頭のピアノの旋律に生かされているんですね。

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ハルビン

そもそもハルビンは鉄道の建設のためにロシア人がつくった町です(東清鉄道。これもまたウラジオストクと繋がってます)。だから街のその辺を普通にロシア人やモンゴル人も歩いてる。だから「ペチカ」はハルビンの風物でもあるんですよね。ペチカは当時のハルビンの家でよく見られた暖房設備だったんです。猛烈に寒いところですからね。(いちばん寒い一月は平均温度が-24.8℃まで下がるらしいですよ。マイナス30度なんて日もあるらしいです。ひえええ...)。この2つの唱歌は戦後、日本の音楽教科書に逆輸入されて有名になりました。

当時の日本は日露戦争で勝ち、遼東半島(大連のあたり)をポーツマス条約で獲得(1905)して植民地化していました。台湾併合、韓国併合と帝国主義的な歩みを進めていた日本はここでもう一歩駒を進めていくことになるのです...それは日中戦争への道。侵略。太平洋戦争への泥沼の道でした。


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大連

では、からたちの花、ペチカ、待ちぼうけの3曲です。

休憩

芥子粒夫人(ポストマニ)詞:北原白秋

山田耕筰はまずピアノとオーケストラの作曲家としてスタートしましたが、その音楽のスタイルがあまりにも前衛で難解で、耕筰の音楽が日本の国民にすんなり受け入れられるはずもありませんでした。そこで耕筰は歌曲にシフトします。当時の日本の音楽界はもう中山晋平の天下みたいな状態でしたからね(カチューシャの唄とかゴンドラの唄とか)...。 それなら歌かなと思うでしょ、やっぱり...

で、耕筰は赤い鳥運動の中、露風、白秋、野口雨情らと組んで童謡を作り始めるんです。それらは広く大衆に受け入れられて大成功を収めました。「日本のシューべルト」としての存在感を確立し、耕筰はいよいよ長年の夢だった日本語オペラの創作に舵を切ったのです。

耕筰は日本の「国民音楽」を確立するためには大規模なオペラが必要だと信じていました。耕筰は日本にはテクストを伴わない管弦楽や器楽の作品を受け入れる基盤はまだ育ってないが、テクストを伴う音楽は琵琶法師の昔から、能、歌舞伎、浄瑠璃、新内などなど豊かな前提があるのだから「日本語のオペラ」が一番受け入れられるはずだと思っていたんです。耕筰は留学時代にオペラ「堕ちたる天女」を書いていますが、その後もオペラへの夢は捨てませんでした。管弦楽曲・ピアノ曲・舞踏詩・歌曲と創作を続けて、名声を確立した上で、満を持して本格的なオペラ創作に向かったのです。

その前哨戦のような作品がこれから聴いていただく「芥子粒夫人(ポストマニ)」です。ピアノと歌のための作品ですが、管弦楽の版もあります。

芥子粒夫人(ポストマニ)は北原白秋の童謡集「象の子」に収められている作品です。元はインドのお話ですね。この「象の子」に入っているお話はだいたい異国風のものです。当時読まれていた「世界小學讀本」に入ってる話を元にして書いたものもあるようです。

ねずみのお姫様のお話。世界最古の童話集「パンチャタントラ」に入ってるお話がもとになっています。

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まあ、「身の丈に合った生き方」や「分相応」ってことはけっこう大事なんだよってお話ですね。この物語は世界中に影響を与えました。日本の昔話だと「ねずみのよめいり」(覚えてますか?)がこのインドの古いお話を元にしています。いろんなヴァリアントが世界中に存在します。

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それを北原白秋が童話(童謡)にしたんです。

この作品は歌曲や童謡とゆーよりは、バラード・譚詩、物語詩とゆー感じの作品です。耕筰自身が「譚詩曲」だと言っている通りです。これをまた山田耕筰は更に独特な作品に仕立て上げました。浄瑠璃とか浪曲のスタイルで書いたんです。耕筰はホントは白秋と一緒にオペラをやりたかったんだけど、白秋が全然乗ってこない。そんな白秋をそれとなくオペラ創作に誘うようなつもりで(撒き餌みたいな感じで)「ポストマニ」は書かれました。プラトン社の「女性」という女性雑誌(主な執筆者は泉鏡花、谷崎潤一郎、武者小路実篤、大佛次郎、与謝野晶子...)に1924年に「歌とピアノで描く童話」という特殊な作品として一部ずつ発表されました。

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山田耕筰は「ポストマニ」についてこう言っています

「 これは4部からなるインドのおとぎ話を元にした演奏時間30分にも及ぶ長大な譚詩曲である。 この種の譚詩曲 としても古今を通じて最大のもののひとつであろう。 この曲で私は 私は洋楽的譚詩曲の型によるよりも、より一層邦楽的な手法や技法を取り入れて洋楽器の伴奏による新しい浄瑠璃とも言うべきものを生もうと心がけた。 それ故この曲の演奏者はこの私の意図を尊重して洋製和魂の実を上げるよう努められたい。 」

新しい浄瑠璃とも言うべきもの... 

最終的に日本語のオペラを作りたいと思いつつ、耕筰はまず浄瑠璃のスタイルを使って作ったってことなんです。

どーゆーところが浄瑠璃なのかと言いますと、器楽のパートナー(浪曲だと曲師ですね。お三味線。)と二人きりでお話を語ってゆくスタイルが浄瑠璃なんです。ポストマニでは台詞部分だけでなく地の文章の部分も歌われます。例えば「意地悪な姉はシンデレラをじっと見た」とか、「シンデレラはわっと泣き崩れた」...とか、そーゆー語りの部分ですね。オペラは語りの部分はなくて台詞だけで出来上がっているでしょう?「シンデレラ、お前は怠け者だね!夕飯は抜きだよ!」「ああ!ひどいわ!お姉さん!」とゆー感じで台詞だけで進行します。歌曲は「詩」ですから全体が語りか一人称のモノローグでできてます。これを地の語りと台詞の部分をぜんぶ一緒にして三味線弾き(曲師)と一緒に阿吽の呼吸で丁々発止で物語っていくのが浄瑠璃(素浄瑠璃)・浪曲なんです。まあ、西洋のバラードもそうなんですけどね。
山田耕作は西洋のバラードのスタイル(シューベルトの魔王がわかりやすいかな....「魔王」は死神や子供の台詞と一緒に地の文章の部分までしっかり歌うでしょう?例えばこんな調子。[苦しむ息子を腕に抱いて/疲労困憊で辿り着いた時には/腕の中の息子は息絶えていた]....とかさ)こーゆーバラードのスタイルを、あえて浄瑠璃の精神で作ったとゆーことなんです。


では、ポストマニをお願いします。
アイザワサトシさんの演出です


余談・ポストマニと浪曲

「ポストマニ」は浪曲に近いと書いたが、例えば👇に挙げた玉川奈々福師匠の「シンデレラ」(無類のおもしろさ!)を視聴してもらえたら、いかに「ポストマニ」のスタイルが浪曲や浄瑠璃に近いかよくわかるだろう(シンデレラは同じように童話ベースなのでわかりやすいと思う)。

「ポストマニ」のスタイルを理解するには本来なら素浄瑠璃を鑑賞するのが一番だが、いかんせん日本語が古くて今の我々にはピンとこない。我々がいちばん親しみやすいのは絶対に浪曲だと思うので、ここでは一例として玉川奈々福師匠の「浪曲シンデレラ」をあげておこう。ポストマニはこーゆー感覚で作られているのだ。曲師と二人で丁々発止で語ってゆくスタイル。

ちなみに落語は基本的にオペラのように台詞部分だけで出来上がっている。それに対して講談は地の文章もちゃんと読む。だから落語は「噺」で、講談は「読み物」。ポストマ二はもちろん講談・浪曲寄り。


余談「あやめ」


耕筰はポストマニのしばらく後、1931年に「あやめ」という小一時間のオペラを書きました「あやめ」は「明烏」が元になってると聞いて最初おれは「ああ、オペラブッファなんだな」、と思った。おれが知ってる「明烏」は落語の「明烏」だから。でも「あやめ」の元になったのは新内の名曲「明烏夢泡雪」だった(落語の明烏の元ネタ)。新内の方の「明烏」は切ない心中ものなので、落語の「明烏」とは全然感じが全然違う(笑)まあ、若旦那(時次郎)が吉原の花魁(浦里)にマジで惚れちゃうってところまでは同じだけど.... そう、耕筰はここでも題材を新内から持ってきている。「あやめ」の録音を聴いてみたが、ストーリーだけではなくて、その音楽の書き方にも新内のスタイルがかなり入っているようにおれには感じられる。山田耕筰はキリスト教的な環境で育ったが、日本の浄瑠璃、新内、歌舞伎などにも足繁く通い、その感覚を自分のものにして作品に生かしていた。


余談・純化され先鋭化する「郷愁」

北原白秋の「郷愁」は童謡を書くようになって一層純化されてゆく。このあまりにも強くて深い郷愁と母性礼賛の思いは「遂に神への憧憬」となり「此の郷愁の素因は未生以前にある」とまで白秋に言わせることになる。

この感覚が国粋主義につながっていったのかもしれない...。言うまでもなく郷愁は愛国心やナショナリズムと強く結びつきやすい。郷愁が神への憧憬と同義にまで高められるとさすがに「問答無用」な感じが高まって、ちょっと危険な感じが漂いはじめる。素因が「未生以前」にまでなってしまうとそれはもう動かし難い「前提」ということになってしまう。郷愁(郷土愛)の薄い者や、郷愁を共有できない者を排除するような気配....母なる故郷・母なる大地への強烈な愛着...

韓国併合(1910)や台湾併合(1896)からつながる帝国主義的な流れの中で張作霖爆殺事(1928)→満州事変(1931)と起こって、日本の傀儡である満州国の建国(1932)→と繋がっていく。そして、日中戦争、太平洋戦争...山田耕筰も北原白秋も満州に深く関わった。そして日本が帝国主義的になるにつれてどんどん国粋主義的になって自発的に・情熱的に国家に協力するようになってゆく。当時はもちろんみんなそうだったのだが、この二人は国粋主義的芸術家の中心人物だったし、とにかく目立った。二人とも満州のために作品をいろいろ書いてる。白秋の詩集「少国民詩集・満州地図」には待ちぼうけとペチカも収録された。この「満州地図」という詩集には可愛らしい素敵な詩もたくさん収められているが、好戦的な内容やあからさまにプロパガンダな詩も含まれていて、さすがに ぎょっとしてしまう(ガソリン瓶を投げつけりゃ / 敵の戦車は火となった)。詩集のラストを飾る詩は「関東軍をねぎらふ歌」。ううーん....

この傾向は関東大震災(1923)をきっかけにして先鋭化してゆく。この二人だけではない。全国的にそうだった。関東大震災は東日本大震災がそうだったように超弩級の国難だった。こーゆー非常時に郷土愛やナショナリズムが高まるのはよくあることだ。(ちなみに山田耕筰は震災の知らせをハルビンで聞いた)

もちろん郷土愛がなければ国民が団結して国難を乗り越えていくことなど不可能なのだが...その反面、郷土愛の裏返しとしての排他性が強烈に高まり、例えば、何の罪もない朝鮮の人たちの虐殺となって噴出するような例もある。この事件はまず地域の青年団や自警団のレベルで起こったことなのだ。市民のナショナリズムが沸騰し、暴走することの恐ろしさ... 官憲は震災後の治安維持のために市民の不安の「はけ口」としてこれを徹底的に利用する。意図的に虐殺や迫害を無視し、助長させる。三・一運動の後で官憲は朝鮮の独立運動に神経を尖らせていた時期だった。そこに震災が起こったのだ。こうした混乱に乗じて、官憲は多数のアナキストや共産主義者を殺害した...(甘粕事件など)

震災の衝撃から国民の郷土愛が自然に高まり、それは新民謡の大流行となっていった。この時期に作られた新しい民謡のなんと多いことか。西条八十と中山晋平の「須坂小唄」(1923)と「東京音頭」(1932)北原白秋詞の「ちゃっきり節」(1927)などは代表的だ。特に須坂小唄は爆発的大ヒットになり日本全国に影響を与え、夥しい数のご当地ソングが量産されてゆく。東京音頭も須坂小唄のヒットを受けて作られたようなものだ。(もちろん長野でも須坂小唄の後を追うように「中野小唄」(1928西条八十/中山晋平)「松代節・ソイソイ節」(1928北原白秋/草川信)などが作られた)。これらは震災後の民衆のナショナリズム(郷愁)の高まりと密接な関係がある。民衆は震災のショックから立ち直るために歌を必要とした。郷土愛と連帯の感覚を獲得するために。そして、そこに植民地主義も複雑に絡み合ってゆく。絡み合って、どうなるか。もちろん軍国・ファシズム、侵略戦争へ…。


余談、様々な映画で時代の空気を知る

この時代の雰囲気について興味がある方は、朝鮮人虐殺のことだったらイ・ジュニク監督の「金子文子と朴烈」(2017)をぜひご覧ください。日本人として観るのがつらい作品だが、それでも観るべき作品。

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瀬々敬久監督の「菊とギロチン」も関東大震災後の大正時代末期を舞台にしていて、時代の不穏さがこれでもかと表現される。アナーキストと女相撲。

吉田喜重監督の「エロス+虐殺」(1977)ではアナーキスト大杉栄を細川俊之さんが演じてる(超かっこいい!)。大正デカダンスの極みのような「日蔭茶屋事件」の映画。時代の雰囲気がよく伝わってくる。「青鞜」の時代の雰囲気。教養ある女性ほど不倫に走りがちだった時代。だから大杉栄のように何重にも不倫を重ねるようなことができた。島村抱月と松井須磨子の不倫劇もそうだし、竹久夢二も同時期に似たような状況にあった。山田耕筰も北原白秋も、そーゆー時代の真っ只中を生きたんです。

大正デカダンス。官能、死...。そう、デカダンスなんだ。大正「ロマン」でもあるけど、おれはロマンよりは「デカダンス」かなと思う。文学なら谷崎潤一郎、永井荷風、竹久夢二、泉鏡花、夢野久作、江戸川乱歩、横溝正史….

洋製和魂、和洋折衷のスタイルのある種の美的極致が、大正デカダンスだとも言えるだろう。

こーゆー大正デカダンスのど真ん中で山田耕筰も北原白秋も生きていたのだ。。。。島村抱月と松井須磨子の不倫劇・大杉栄の日陰茶屋事件と同時期に白秋も耕筰も愛の地獄の中でのたうち回っていた….


鈴木清順監督の大正ロマン三部作(ツィゴイネルワイゼン、陽炎座、夢二)は、大正デカダンスのエッセンスを理屈抜きで体感できる三作。
必見。

そもそも鈴木清順は大正が舞台の作品が多い。「刺青一代」も「花と怒涛」も「悪太郎」も同様….
神代辰巳の「四畳半襖の裏張り」、「四畳半襖の裏張り しのび肌」、「戻り川」なども必見の大正デカダンスものだ。清順作品などが難解で辛い場合はぜひこちらを!

市川崑の「おとうと」や成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」なども同様。「人生劇場」も日本侠客伝シリーズも緋牡丹博徒シリーズも大正。とにかくもう、数えきれないほど….。大正時代はつまり、一種の「宝庫」なんだよな….

漫画では、「はいからさんが通る」はもちろん大正。


大人気の「鬼滅の刃」も大正デカダンスど真ん中だ。



トーク動画


終演後の出演者のトークをご覧ください

https://twitcasting.tv/_a_kato/show/

視聴には以下の合言葉が必要です

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