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リャードフ:キキモラop63/バーバ・ヤーガ Op.56

アナトーリ・リャードフ


アナトーリ・リャードフは1855年サンクト・ペテルブルク生まれ。父親のコンスタンティン・リャードフは指揮者でマリインスキー劇場の楽長だった。
アナトーリは1870年からペテルブルク音楽院で学んだ。ピアノの腕は優秀だったが、在学中に対位法の勉強に熱中するようになり、作曲の道に進むことになる。

👆在学中の1876年の「6つの小品」Op3は前奏曲、ジーグ、フーガ、マズルカ3曲というちょっと変わった構成。前奏曲とマズルカはまるでショパン。特にマズルカはショパンと見分けがつかない人も多かろう。
ジーグとフーガはバロックスタイルでしっかり対位法をやっている。「フーガ風」とか「対位法的」とゆー段階ではなく、しっかり対位法に対峙してる。対位法の勉強に熱中したリャードフの面目躍如たる作品。
彼の中にはショパンと対位法が同居していたのだ。
2つのフーガOp41(1896)もバッチリ対位法だ。

👆弦楽四重奏のためのサラバンドとフーガ(1899)ではガチンコで四声体の対位法をやってる。サラバンドはピアノのためのサラバンドト短調(1895)の転用。

リャードフはリムスキー=コルサコフのクラスに在籍したが、欠席が多過ぎて1876年に除籍になった。怠け者なのだ。彼は無断欠席が多いだけでなく授業の課題も軽視した。ムソルグスキーからその才能を絶賛されるほどの優秀な学生だったが、残念ながら「勤勉」ではなかったのだ。除籍されたが卒業作品を完成させるために何とか復学して卒業した。彼は卒業するとすぐにそのままペテルブルク音楽院で教えることになる。超優秀だったのだ。
こんな不真面目な怠け者が教師だなんて大丈夫なのかと思うが、彼はなかなかいい教師だった。やってみなきゃ分からんものだ。
リャードフのクラスからはプロコフィエフ、ミヤスコフスキー、アサフィエフなどの才能が育った。リャードフは、非常に反抗的で和声の課題を不協和音だらけにして提出するプロコフィエフに手を焼き、いつも怒り狂って怒鳴りつけていた(自分も課題をちゃんとやらなかったくせに・笑)。でもリャードフはめげずに伝統的な和声法を徹底的に教え続け、叱り続けた。でも、リャードフは実はこんな風にも言っていたのだ。「プロコフィエフの音楽は私にとって反抗的だけれど、それでも彼には才能がある。どんどん作曲しなさい」
いい先生じゃん(*´ω`*)

リャードフは民族音楽の重要な研究者でもあった。ロシア各地の民謡を200曲以上収集し、120以上の民謡を編曲して出版した。民謡研究には勤勉に取り組んだんだね
オーケストラのための「8つのロシア民謡」Op58(1906)
女声合唱のための「10のロシア民謡」Op45(1899)
などは民謡研究が作品に生かされた好例だ。特にオーケストラの「8つのロシア民謡」Op58はリャードフの作品の中でも特に有名な作品だ。
おれは個人的には女声合唱のための「10のロシア民謡」Op45が凄いと思ってる。
これは傑作だ。
なんという美しさだろう。
コダーイやバルトークの同種の作品に迫る出来映えじゃないか…、と思う。

リャードフ

リャードフは学生時代に師匠リムスキー=コルサコフに迷惑をかけっぱなしのダメ生徒だったが、彼は心からリムスキーを尊敬し、慕っていた。

リムスキーは貴族の出自ではあったが、学生たちの革命運動に同情的だった。1905年(血の日曜日事件の年)、リムスキーは学生たちの行動を支持したかどで、ペテルブルク音楽院の教授職を解雇される。リャードフは抗議の意思を示すためにグラズノフらと共にリムスキーの復職が叶うまで音楽院を辞職した。怠け者で目立つのが大嫌いな男だったが、やるときはやる男なのだ💯
リャードフはいい教師ではあったが、生来の怠け癖はずっと治らなかった。
それは元々の性質だけではなく、自己評価の低さから来るものでもあったようだ。
自分の才能を正当に評価できず
「作曲してもどうせ駄目なものしかできない。だったら書いても仕方ないじゃん」
とゆー思考を生んでしまったのだろう。
だからリャードフの作品数は少なく、小品ばかり書いていた。
未完成のまま放置された楽譜も大量に残っている。
未完のオペラの素材は後の「キキモラ」などに生かされた。
彼には大作を根気よく構築する能力が決定的に欠如していた。だから根気と集中力が必要なソナタとか交響曲とかは書けないのだった。
だから管弦楽作品もほとんどが10分以内の小品。「8つのロシア民謡」はそれでも10分越えてるが、これは小品集だからなあ….

バレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフは「火の鳥」の作曲をリャードフに依頼する。実はリャードフはディアギレフの学生時代の和声の先生だった。
リャードフは火の鳥の話を聞くと
「そんな曲には一年かかる」
と答えた。
ディアギレフは一年も待てない。
例によってリャードフの筆は遅々として進まず、
前金をもらっても結局五線紙を買っただけで
あっさり降りてしまう(-_-;)
結局「火の鳥」は無名の新人ストラヴィンスキーが作曲することになった。
ストラヴィンスキーは見事なスコアを短期間で仕上げた。そして大成功を収める。ストラヴィンスキーはあっという間に世界的な作曲家になった。
この時もしリャードフが頑張って「火の鳥」を書き上げていたらどうだっただろう…

リャードフ:キキモラ Op63

リャードフは1909年にロシアの民話をもとにした管弦楽曲「キキモラ」を作曲した(副題は管弦楽のための民話)。「バーバヤガー」の姉妹作のような音楽だ。
「キキモラ」や「バーバヤガー」を聴くとストラヴィンスキーの「火の鳥」を思い起こさせる。ディアギレフが「火の鳥」の構想の時にリャードフを真っ先に思い浮かべたのはそーゆーことだったのだなあ…..。このロシア的な色彩感覚。

キキモラは、岩山の魔法使いに育てられた妖怪。おしゃべりな雄猫がキキモラのために子守歌を歌い、異国の物語を聞かせてくれる。キキモラは大人になった。とても痩せていて真っ黒で 頭部は指先程の大きさ。体は藁より細い。昼間は足を踏み鳴らし、大声で鳴き、真夜中から夜明けまで大麻を紡ぐ。全ての人間に対し悪意を抱いている。

キキモラ

キキモラはロシア民話のなかにおいても諸説があるようで、一般的には働き者の味方とされる謎の多い幻獣とされる。しかし、火事、病などの災いをもたらす老婆とされたり、顔は狼、白鳥のようなくちばしがあり、胴体は熊、足が鶏。尾はボルゾイという不思議な姿をイメージされることもあるようだ。また、不幸な子供の死霊がキキモラになるという伝説もあるらしい。


バレエ・リュスは1912年にフォーキンがやめてしまい、1914年にはニジンスキーがクビになってしまう。わずか数年のうちにトップダンサー兼振付師を失うとゆー非常事態を迎えていた。1914年は第一次大戦もいろんな意味で不安定な時期だったが、ディアギレフは先のことを考え、周到に準備していた。そこでディアギレフはレオニード・マシーンという無名の若者をスカウトしてきた(すごいイケメンだった)。マシーンの才能は未知数だったが、ディアギレフは彼の才能を疑わなかった。早速マシーンを愛人にすると徹底的に教育し始めた(手が早い!さすがだ)。
1914年、バレエ・リュスはスイスの湖畔の村ウーシの別荘「ヴィラ・ベルリーヴ」に居た。そこにはストラヴィンスキー、アンセルメ、ラリオーノフとゴンチャロワ夫妻も滞在していた。
アメリカ公演の交渉のために訪れたメトロポリタンのウィリアム・J・ガードはこの時のウーシの様子について以下のように書いている。
「ディアギレフは彼の仮住まいとその庭を案内してくれた。椰子、夾竹桃、松、楓、ライラック、バラに囲まれた数エーカーの素晴らしい土地だった….私は彼に連れられていくつかの別荘を訪問した、どこの部屋でも若い男女がペンや鉛筆や絵筆を手に、忙しそうに仕事をしていた。ひとり残らずロシア人だった。女性のうちの一人はナターリヤ・ゴンチャロワといい、プーシキンの縁戚だということだった。….すらりと背の高い青年画家はディアギレフの堀り出し物のひとり、ミハイル・ラリオーノフだった。……(お茶の時間になると)ストラヴィンスキーとアンセルメがやってきた。ストラヴィンスキーがほとんど一人で喋っていたが、……他の人々もそれぞれ黙っていなかった。ディアギレフは時々反論したり質問したりしてオルガニストがオルガンのストップを操作するように友人たちの知性と戯れていた」ディアギレフは若き天才たちを周囲に集めて議論を重ね、バレエ・リュスの方向性を探っていたのだ。
刺激を受け、教えられ、時には彼らを挑発した。

ラリオーノフとゴンチャロワ

ディアギレフはラリオーノフとゴンチャロワに期待していた。ディアギレフは1906年に開催したパリの展覧会に二人の作品を出展していた。この二人の作風は1907年以降から変化し、「キュビズム」と「ネオプリミティヴィスム」の影響が強くなる。
ディアギレフは、第一次大戦までの時代のバレエリュス第一期の美術を担ったレオン・バクストのスタイルは、もう長く続かないだろうと見ていた。実際、第一次大戦以後バクストのバレエ・リュスの仕事は減ってゆく。
バクスト以後のバレエ・リュスの美術はどうしてもピカソ中心で語られてしまうが、実はゴンチャロワとラリオーノフ夫妻もまた重要な役割を担っていた。ロシア的な作品を取り上げる時にはやはり彼らの出番になった。

ナターリア・ゴンチャロワ
ミハイル・ラリオーノフ

マシーンに振付の才能があると確信したディアギレフはマシーンに「真夜中の太陽」(リムスキーコルサコフのオペラ「雪娘」より)を振付させてデビューさせた。マシーンのデビューに力を貸したのがミハイル・ラリオーノフだった。ラリオーノフにとってもこれはバレエ・リュスとの初仕事だっった。
マシーンは以下のように書いている
「ディアギレフのはからいでラリオーノフが私の仕事を監督することになった。一緒に階段を一歩一歩上り、本質的な簡素さに到達するために雑多なものを大胆に削り落とした」
「真夜中の太陽に取り組んでいる間、ラリオーノフと私は互いに刺戟しあったようだ。私は幼年時代の ホロヴォートや<マースレニツァ・燃えろ燃えろ明るく燃えろ> の思い出をもとにして振り付けていったが、ラリオーノフはそれにぴったり合う農民風の仕草を教えてくれた。私はラリオーノフのおかげで初めて、そうした古い時代の農民の儀式的な舞踏の本質を理解した。」
ラリオーノフはロシアの民俗学を学んだことがあったので豊富な知識を持っていたのだ。

「真夜中の太陽」
「真夜中の太陽」は森の王の娘である雪娘の物語だ。雪娘は人間に恋をしてしまう。雪娘は太陽の熱で溶けてしまった。

ラリオーノフ「真夜中の太陽」のセット・デザイン(1915)
ラリオーノフ「真夜中の太陽」(1915)
ラリオーノフ「真夜中の太陽」衣装デザイン
ラリオーノフ「真夜中の太陽」衣装デザイン

「真夜中の太陽」は1915年にジュネーヴで初演された。指揮はアンセルメだった。

ディアギレフは1916年に、リャードフの「キキモラ」をマシーンに引き続き振り付けさせた。美術や衣装デザイン、メイクの指示はラリオーノフ。
初演は8月にスペインで行われた。

バレエのストーリーは、以下の通り。
キキモラはゆりかごに入れられて眠っている。猫は注意深く揺籠を揺らしていたが、うっかりしてキキモラを目覚めさせてしまう。キキモラはかっとなって猫の首をちょん切って、外に飛び出してゆく(剥き出しの暴力がのに放たれる)。

ラリオーノフ「キキモラ」セットデザイン
ラリオーノフ「キキモラ」


ラリオーノフのキキモラに扮するニジンスカ(1917?)
マン・レイの撮影
ラリオーノフ「キキモラ」の猫の衣装デザイン(1916)


リャードフ:バーバ・ヤーガ Op54

https://youtu.be/17szhwbiw_o?si=mxvfdZcj_tIOB9mT

1904年に作曲された管弦楽曲「バーバ・ヤーガ〜ロシア民話に寄せる音画〜」Op54はスラヴの民話に登場する魔女をテーマにしている。子供を誘拐して取って喰う。老婆の姿で骨と皮のガリガリの身体。脚はむき出しの骨だけ。箒を持っていて、臼に乗って杵で漕いで移動する(箒で跡を消しながら)。バーバ・ヤーガはロシア民話によく登場するが、単なるヒールではなく、意外と慈悲深くて人間を助けることもある(ただしその人間が礼儀正しく、節度を遵守し、魂が清らかであることが条件。なかなか厳しいのだ)。

バーバ・ヤーガ


バーバ・ヤーガは「鶏の足の上に立つ小屋」に住む。小屋の中にも庭にも人間の骸骨がゴロゴロ転がっている。
ロシア民話ではバーバ・ヤーガはポピュラーな存在で岩波文庫のアファナーシエフ「ロシア民話集」でも何話にも出てくる定番の登場人物だ。カスチェイも定番だが、やはりヤーガ婆さんの方が人気があって登場回数は多い。
ムソルグスキーの「展覧会の絵」(1874)の「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤーガ」はリャードフのバーバ・ヤーガに先立つ作品だ。

鶏の足の上に立つ小屋

👇ムソルグスキーの「展覧会の絵」の「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤーガ」

チャイコフスキーも「バーバ・ヤーガ」を書いてる。「子供のアルバム」Op.39(1878)の中の一曲。
「魔女」という邦題だったりもする。
やっぱりちゃい子もムソルグスキーもリャードフも同じようなムードがある。
ザ・バーバ・ヤーガな感覚ってことかな。


リャードフのバーバ・ヤーガのあらすじは
以下のような感じ。

バーバヤーガは小屋の前の庭に出て口笛を吹く。すると臼と杵が現れる。バーバヤーガは臼に乗って飛び去る。森の中でざわめきが聞こえ出す。木がぱちぱち音を出して裂け、枯葉がかさかさ鳴る。

リャードフは大作オペラ「シンデレラ」のスケッチを始めたが、リムスキーにも励まされたが例によって書けずに放り出してしまう。この時のスケッチが「キキモラ」や「魔法にかけられた湖」Op62に生かされることになった。

ディアギレフはバレエ・リュスの前哨戦となる1907年にパリで開催したロシア音楽演奏会で「バーバ・ヤーガ」を選曲していた。

余談:ヘルボーイ

ニール・マーシャル監督の映画「ヘルボーイ」(2019)にはバーバ・ヤーガが登場する。この作品でバーバ・ヤーガは臼と杵に乗ったりしないが、鶏の足の上に建つ小屋はしっかり登場する。ここだけでも一見の価値ありと思う。


「ロシア物語」
ディアギレフは「キキモラ」の成功に気を良くして、マシーンにリャードフの「キキモラ」に「バーバヤーガ」と「魔法にかけられた湖」Op62を加えた3部構成のでヴェルティスマン風の「ロシア物語」を振付させることにした。美術・衣装はラリオーノフとゴンチャロワだった。1918年初演の指揮はアンセルメ。
曲順はキキモラ→魔法にかけられた湖→バーバ・ヤーガ。

「魔法にかけられた湖」は竜に呪いをかけられた白鳥姫のお話。夜だけ人の姿に戻って湖を見つめる姫。ここにボヴァ・コラレヴィッチが登場して龍を倒し、キスで白鳥姫の呪いを解く。

ラリオーノフのバーバヤーガのデザイン(1916)


ロシア物語のカルサヴィナ(1920)

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