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「流れと私」作文コンクール①

noteのお題リクエストに「流れの正体とは」というまあまあ無茶なものを頂いたので、今回のテーマは「麻雀の流れ」について。タイトルは小学生の頃、夏休みの課題にあった「お米と私・作文コンクール」から拝借した。私は当時、非常に作文の苦手な子供だった。

■お米について、なにも思わない

今でこそ「ズムの書く文章は面白い」と言ってくれる人も多少いるので、いくらかは私も成長したのだろうか。当時の私は「お米について、なにも思わない」だから書けない、と思っていた。なにも思わないと思うことは、なにを思うことなのだろう。いま私は当時のお米に対する気持ちを「流れ」に対して抱いているのではないかと考えている。ちなみに、お米はおいしいとは思っていた。

■避けている言葉

これまでの記事を読んでくれた方は気付いてくれているかもしれないが、私は「解釈が分かれそうな言葉」や「曖昧だが便利な紋切り型フレーズ」を普段から避けている。流れも、避けている言葉なのである。

そもそも「流れの正体は」という質問が無名の私に投げかけられるくらいなので、曖昧でなにを指しているかもよく分からない言葉だと考えている。

■意味の曖昧なものの有無を議論する下らなさ

そんな正体も分からない流れに関しては、有無をめぐる議論が繰り広げられており、過去には実に下らないものが多かった。まずは否定派が「非科学的だ」と攻撃を開始。すると肯定派が「川は上流から下流へ、時間は過去から未来へ、流れているのは明々白々」と反論。

まず否定派の意見について、一旦はしょる(次回以降にうまく書けるかも分からない)が、私は麻雀において「流れ」と呼ばれているものに対して、科学的か非科学的かの区別が意味を成すとはどうしても思えない。

彼らはそもそも流れを観念的で、心理的影響の産物だと思うから懐疑的な立場であるのに、非科学的と言い捨てるのは妙に対・自然科学的で、相手の語法に引っ張られてピンとこなくなった主張のように思えてしまう。

次回以降に書いてみたいことだが、そもそも「非科学的だ」という批判はあまり科学的な態度ではないことが多いと感じている。

■悠久の自然で例えただけでは壮大にならない

対して川が上流から下流に流れると肯定派が反論するからには、かくも流れとは自然科学的に存在していると言わんばかりの主張だが、明らかに実像を持たないのにそこに存在していると主張するものを説明するにはあまりにも説得力がない。

これは言い換えれば「麻雀は東場から南場に流れているではないか」と時間の経過について喋っているのと同じなので、悠久の自然を引き合いに出しても効果は同じである。観念的なものから単なる時間経過の話題に論点をすり替えて議論を曖昧にしていると思われても仕方がない。

お互いに、説明の意思が欠けたお決まりの文句をぶつけ合い、定義が明確でないものの有無を言い争うのは、とてもむなしい。

■お米はおいしい

もう一度言うが、私は「お米はおいしい」とは思っていた。思っていたのに「なにも思わない」と思ったということは「お米がおいしいという感想は作文コンクールに挑むにあたってあまりに陳腐だが、他に“なにも思わない”」―これが当時の私の本当の気持ちだと、いま分かる。

流れについてはどうだろう。「くだらん」とは思っていたが、そんなことはわざわざ発言する意味もなく、他に意見もない状態にあったのである。なぜ「くだらん」と思っていたかは、上記のような議論ばかりが耳に入ってくるからであり、お米のケースと同じように自分の本当の気持ちを分かろうとすると、流れというものについて考えること自体が「くだらん」とはまったく思わない。

なぜ議論がくだらなくなったのか、それはお決まりの文句の投げ合いになってしまったこと以前に「有無をめぐる対立の図式」が気に入られ過ぎたことにあるのではないだろうか。

私は麻雀をはじめてまだ15年足らずだが、話に聞く「議論が生まれたきっかけ」は「“有無”自体をめぐる意見の相違」ではないように思えるのである。

■また長くなってすみません

小学校では米の作文だけでなく「大人になった自分に手紙を書こう」というコーナーも、よくあった。もれなく苦手だった。「なにも思わなかった」ので、陳腐でありふれた言葉を書いて誤魔化した気がする。あの頃の自分に「なんでなにも思わないかを考えて書いたら原稿用紙が埋まったよ」と手紙を書きたい。




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