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思考の底の記録

「写真好きなんだ。なに撮ってるの?」 と言われる。
うまく答えることができない。

わたしは人に、趣味は写真を撮ることです、と言っている。この質問も、これまでに何度も受け答えしているような、ごく自然な質問だ。

わたしはなにを撮っているのか。
風景?ポートレート?物撮り?スナップ?
写真の種類の話がしたいわけではない。

写真家になるつもりもないし、ギャラリーで展示がしたいわけでもない。ふつうの、ただの生活の一部。視界に捉えたものの記録。それが好きか、と訊かれるとよくわからない。

ただこれを趣味と言わずして何を挙げたらいいのかわからない、ゆえにこれを趣味としているわけで。

わたしは写真が好きなのか?

少なくとも、アートや表現として写真という媒体を選んでいるというつもりはなかった。

それでも多くのものに触れて、感じて、見て、知るということ。年月を経るにつれ、自分の感受性が増大する。デザインや芸術、表現について学ぶ。惹かれるものや瞬間が増える。今まで見えなかったものが見える。写真を撮る行為を通して、物体や空間の捉え方が変わってゆく。所謂それも撮る理由の一つではあるかもしれない。

目の前に見えるものを、次元を落として平面に仕舞い込む。"撮る"という行為における、時間、空気、温度、匂い、あらゆるものに対する絶対的な感覚。それらに身を任せてシャッターを切る。自分だけは知っているはずの像が、よりいっそう面白く、うつくしくみえる。

また、写真を撮るようになってから、殊更に我が強くなったように思う。これまでに撮った写真たちと向きあうことは、当時の自分と向きあうようなものだ。わたしは写真を通して自意識と対話しつづけている。その状態があまりにつづくと今のように独りよがりな思考がどんどん錬成されてしまう。

これは暴論ではあるが、ひとの意思や思考が色濃く反映された、そういうなにかが込められた写真は、たとえ人物が写っていなくても、ある意味でのポートレート写真だと思っている。撮影者による自己投影というかたちの。

だからというわけでもないが、自分と他者が同じものを同じときに撮ったとしても、そのふたつの写真は全くの別物のように思える。技術や機材などの話とはまた別で、他者が撮った写真を見ると、自分の世界では見ることができないようなものが写っている。と、少なくともわたしはそう感じている。

人と話していて「この人と自分は見ている世界がちがう」と感じることがよくあるのだが、人それぞれの世界があるのは当然であり、写真はその証明のようなものでもあると思う。

先に話したような、同じものを同じときに違う人が撮るような機会は多くない。大抵違うものを違うときに違うひとが撮っている。実際にそんな写真を見ると、当たり前に自分の知らない世界が写っていて、時々、強く惹かれ、時々、心がざわつく。写真展ではこれ以上見ているのが辛いと思うほど良い写真に邂逅することもある。

ここまで書いて気づいたが、わたしは十分写真が好きなようだ。理屈や線引きなんて考える必要なかった。

写真を撮るということ。

自分の見る世界を現像するときにも、写真のもつ偶然性や瞬間の切り取り方によっては、心躍るような体験を得ることができる。写真は自分の記憶の記録でもあり、偶発性のある自己表現でもあるということ。

自分のみる世界の、その断片をどう表すのか。そこに意義や目的なんてなくても。なにを撮っているのか、なぜ撮っているのかなんてわからなくても。そこに意味なんてなくても。撮りたいという衝動があるなら。




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