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浄化

2、3年前から、「浄化」する、「浄化」されるような体験を求めるようになった気がする。

スピリチュアルでもなければ無宗教だけれど「気」というざっくりとした概念は実在すると思っている。英語で言うエネルギー、それが汚れたり押し潰されてしまう感覚に敏感になったんだと思う。

スマホが普及し、そこから全ての情報量は絶えず右肩上がり。自分にメディアリテラシーはある方だと思っていても、それでも見たくない情報や自分のキャパ以上のものを取り入れてしまった時にはどうしようもなく心が沈む。

大学2年生頃までは周りの意識の高さや、物事を効率化・最適化する社会の動きに特に何も感じずそのスピード感に置いて行かれている気分にもなったことがなかった。だが一年間の留学から帰国し、就活真っ只中の同期や同年代の切迫感と焦燥感に圧倒されてしまい「あ、無理だ」と感じた瞬間があったように思う。気が吸い取られる、そう思った。
元から出世欲やリーダーシップや責任の伴うポジションに就く欲は高くはなかったが、それ以降は新しい情報を追いかけ続けたり周りと目まぐるしく競争するようなことにより一層関心がなくなった。
人の扱いが雑な人、自分のペースでしか会話を回さない人、話に毎回オチを求めてくる人も全て私の気を吸っていく。

要するに自分のタンクのキャパ上限が見えた。

基本的にタンクの6割は常に埋まっている。生活、人間関係、仕事など自分と切っても切り離せない要素がそれにあたる。
残り4割が空いている状態が一番色々なことを素直に楽しめたり感じたりできるのではないかと思いつつ、何にせよ情報が多い分その空きが埋まるスピードが上がっている。

ちょっとしたことで苛立つようになったり、自分や人の悪いところにばかり目がいっていると感じた時にはもうオーバーフローが起きていて、ドラマや映画が観られなくなり、本の字も頭に入ってこなくなる。

責任感と正義感の配合がちょっぴり多めで、俗にいう生きづらい性格の代表格である自分のこのタンクには余白が必要不可欠だ。

手っ取り早く余白を作るための浄化行動は大体決まっている。

分かりやすく部屋を片付け始め、分かりやすく殻に引っ込み人が多いところを避けるようになり、分かりやすく綺麗な水辺にいってあたかも物語の主人公になったかのように夕日を見ながらボーッとする。
悲しいことに、暮らしていれば部屋は少なからず散らかり、外に出なければならないタイミングが来て、夕日は沈む。
急に自分探しの旅に出る人はこういう状態から脱却したくて一念発起した人たちなんだろうか。

残念ながら私は自分探しの旅に出かけるような度胸は持ち合わせていない。
自然に囲まれて壮大さの中の小さな一部分になり、家の中の無駄を排除して、限りなく人間関係を狭める。こうして書いていることも、脳内の言葉を吐き出して容量を空ける作業だ。言い方としては分かりずらいが、ゼロに戻るような体験が自分にとっての浄化行動だと思う。

タンクの中身を掬って流して、自分の気の周りについた埃をはらって、刺さっていた棘を抜くことを黙々と一人ですることで自分の平穏を守ってきた。
地道で遠回りなやり方でしか、自分を好きでいたり人に優しくあり続けられないのはどうにかならんもんかねぇと思うけど、人生一周目なんだから探り探りでいいのかもね。

間延びして締め方が雑なのはご愛嬌。

綺麗な水辺に行きたいな。
長野とか岐阜の川とか、名護の海とか。

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