私がAIR(車谷浩司)に狂っていた頃1

序章

中学生の頃はゲーム、アニメ、漫画の二次元にしか興味が無かった私だが、高校生になるとさっぱり触れなくなり、代わりにロッキンオンジャパンとCUTIEとZipperを愛読するサブカル予備軍へと成長した
今でいうロキノン厨というやつで、ロキノンに載ってたアーティストの音楽を片っ端から聴いた
その内にAIRの「Yawn」という曲に出会い、そこから私は狂っていくことになる

Yawn/AIR

初めて聴いたとき、美しくて悲しくて寂しい旋律と内向的な歌詞、消えていきそうな儚い歌声に泣きそうになった
この曲が高校生の私に刺さりまくってしまい、本当に毎日何度も何度も繰り返しMDが壊れて聴けなくなるまで聴いた
他のアルバムも全部買い、ライブにも行くようになり、私はどんどんAIRの音楽にのめりこんでいった

AIR友が欲しい

私はありあまるAIRへの情熱を同じ温度で語れる友達が欲しいと思い、高校の中にはいなかったのでネットの掲示板でメル友を募集した
そこで連絡をくれた大学生の男性のTさんと、同じ歳のRちゃんと毎日のようにAIRについてメールで語り合っていた

このときケーブルテレビのスペースシャワーやMusic on!TV(エムオン)の全盛期で、契約してる人は地上波に出ることのないミュージシャンの番組やPVを見れることが死ぬほどうらやましかった
Rちゃんの家はスペシャやエムオンが見れる環境で、AIRの出る番組を録画してると聞いた私は「(Rちゃんの住む)千葉まで取りに行くのでビデオテープを貸してほしい」と申し出た
するとなんとRちゃん、まだ会ったことのない見ず知らずの私にビデオテープを送ってくれたのである!
なんというやさしさ…
後にRちゃんに会って聞いたところ、「この人本気だ」と思ったので貸さざるを得なかったらしい
Rちゃんあのときはありがとう

AIRのラジオが聴きたい

当時AIRのファンクラブがあったら絶対入っていたと思うのだが無くて、「その代わりにファンクラブだと思ってラジオをやっている」とAIR言っていた
ファンとしてはなんとしてでも聞きたいところである
がしかし、そのラジオは地方局のFMヨコハマだった
こちとら都会の横浜からはほど遠いまわりに田畑しかないド田舎で、普通のFMすらまともに聞けないような環境だ
しかし私は「横浜の電波を拾う、拾ってみせる」と思った

当時はラジカセについてる2本の紐みたいなコードでFMの電波を拾う仕様になってて、私はダウジング(イメージ画像参照)するように2本の紐を持って自分の部屋中を歩き回った

イメージ画像

思いのほか早くダウジングは成功し、私は心の宣言通り自分の部屋からFMヨコハマの電波を拾うことができた
ラジカセの位置を固定してアンテナをセロテープで留め、放送時間がかなりの深夜だったのでカセットテープにタイマー録音し、ラジオがあった日は朝5時に起きて聞き、テープがいっぱいになったらMDに録音し、他の音楽と一緒に聴くのが日課だった


あの情熱はどこから来ていたのかと思うが、幽☆遊☆白書・蔵馬からAIR・車谷浩司へと推しが二次元から三次元へとスライドしただけのような気もする
あと高校生になってバイトできるようになって、自分の稼いだお金を注ぎ込めるのも、電車に乗るようになって行動範囲が広がったのも大きかったな
ヲタクの魂百まで


つづく

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