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自分を認知しない相手を、愛するということ

ヨルシカを愛してきました。初めはただ彼らの音楽を好んで聴いただけだった。でも確かにそれは鮮烈な経験で、人生でこんなに鮮やかで瑞々しいものに触れたことなどなくて、しばらくの間、彼らの音楽のことしか考えられなくなった。気づいたら根こそぎ心を奪われていた。それから何年も、彼らを第一に愛して人生を送ってきた。彼らは私の世界のすべてだった。今でもそれは変わらない。それくらい、彼らに想いを掛けてしまっている。

それは時として苦しさに変貌する。自分と彼らの立場を客観的に見下ろしてしまったとき、自分がちっぽけすぎて、本当に虚しくて、ただ苦しくなる。


後書きという名前のファンクラブに入っている。そこで時々ラジオを聴く。彼らが話しているのを聴いているそのときが、いちばん苦しくて、虚しい。私はそのラジオというコンテンツに、何度心を掻き乱され、泣き寝入りしたか分からない。

n-bunaさんは昔、円の内側の人間にしか興味がない、というようなことを言っていた。それは彼と実生活のなかで関わることのできた人たちのことをおおよそ、意味しているんだろう。そして同じように円の内側にいるsuisさんと話している。それだけならいいのだ。彼らが話すのを聴くとき、私の人生の存在は一時的にないものになって、意識しなくなるから。でも、彼らはしばしばファンの話をする。純粋で軽薄な興味のまなざしを以て私たちのことを話題に出す。その瞬間、意識下に私自身の存在が浮き出てくる。ヨルシカの二人が現実に集って話をしている、私はあとから、遠くから、それをひとり聴いている。そうすると、ああ貴方たちの人生のうちに私の存在はないのだなあと実感してしまう。至極当たり前なことである。これがアーティストとファンというものだ。立場が違うのだ。分かっている。けれど、それは淋しい。

それをもっと苦しいものにさせているのは、彼らの無理解だ。彼らは、ファンのことを全然知らない。ファンのことや、現実に生きている大衆のことを、遠くから見下ろして、驚いたり、感嘆したり、面白がったりしている。

n-bunaさんが以前抱いていたファンに対する姿勢を私は理解しているつもりである。ファンは円の外、興味はない。勝手に自分たちの音楽を利用して、勝手に幸せになっていたらいい、と。別に私はそれに対してネガティブな感情を抱かない。彼がそう思う権利があるのは当然だし、ファンがそれを拒んだりできないと思う。

でも、ラジオを聴いていたら、彼らが純粋な好奇心を持ってこちらに歩み寄ってくるように感じてしまうことがある。suisさんも一緒に録っているから彼女の姿勢に合わせているのもあるとは思うけれど、やっぱり「どうして?」と言いたくて堪らない。どうして、興味を示すのですか。私たちのことは無視したいんじゃないんですか。感心を持たれていないと一度諦めた相手に、一歩歩み寄られる、そういうふうに見えるのが苦しい。それから、そのとき彼らの発する感想が、また私を惨めにさせる。ファンは実際に存在するのだという驚き、ファンの行動に対して示す好奇心、そのひとつひとつが、彼らがどれだけファンのことを分かっていないのかを示している。私はこれだけ貴方たちに人生と感情を掻き乱されているのに、貴方たちはのうのうと、今になって私たちの存在自体をその脳内で想像して、驚いている。そのアンバランスが、意思疎通の不可能さが、本当に苦しい。彼らがファンの存在に感嘆しているというのは、私にとっては無垢で残酷な仕打ちに思える。私たちにだって貴方がたと同じ質量で人生があるのだ。その質量をもって貴方たちの音楽を愛しているのだ。またそういう人生が、ホールを埋め尽くす数、存在しているのだ。この想いは、ずっと届かないのか。ずっと、そばにいって直接声を届けることはできないのか。でもそれもファンという分際をもってしたら、当たり前なことだ。それがファンという存在の宿命であって、今まで、届かないくらい上にいる存在を敬愛した人たちはみんな、そういう関係を受け容れて、それでも彼らを愛してきたのだろう。


それから、彼らが、私の居ないところで笑ったり幸せになったりしているのも苦しい。いや決して不幸になれなんて間違っても思わないけれど、彼らの人生のうちに私という一人の人間は必要ないんだなあとしみじみ感じる。当たり前だ。当たり前のことなんだけど、やっぱり淋しい。こんなに想いを掛けているのに、それを伝える必要性すらなく、私の人生が抹消されてさえ、彼らの人生は何も欠けることなく円満に進んで行く。彼らに私は必要ない。そういうのを分かってしまうからラジオは苦しい。Twitterも同じように苦しい。だからラジオを聴くとき、私の人生と身体はほどけるように無くなっていく。夜の闇に包まれていく。でも心でそれを聴いているわけだから、心だけはどうしてもそこに残ってしまって、その心でこの苦しみを噛み締める。ただ涙ばかり零れている。


私が私が、って自意識過剰すぎるし、ならば直接話せるように成る努力をしろよ、と言われるかもしれない。それはそうなんだけれど私は根本的に彼らにとってただの「ファン」であるという、そこがもう間違っている。彼らにとって大切な一人の人格を持った人間という地位にもう、上がれない。最初から上がれない。ファンはファンでしかいられない。数年間彼らを見つめてきて今そう思う。私は、彼が嫌悪し読まないと決めている「後書き」に喜んで入っている。その名前にしたのは紛れもなく彼だ。私が必死の思いで、裏方に隠れようとするn-bunaさんの人間性を垣間見ようと縋っているコンテンツに彼は、彼の嫌うものの名を与えた。貴方にとってファンにしかなれないのが、そういう運命がヨルシカに出会った頃から決まっているのが苦しい。貴方に「君」として歌われてみたかった自分がいる。君として歌われず今後歌われることもないファンとしての自分がまたいる。こんな現実なのですか。それを一生甘んじて受け容れ続けるのは本当に苦しい。なんで貴方に嫌われたり、無視されたり、突き離れされるように驚かれたり、面白がられたりするようなものとしてしか存在できないのか分からない。それがただただ悲しい。

そんなことを、貴方たちに人格を認知されてもいないようなちっぽけな片隅のファンは思う。


でも、それでも、私はヨルシカを愛し続ける。見返りを求めなくなってからが愛だと思うし、突き放されても愛し続けるのが愛だと思うから、私は、貴方がたに教わった愛というただそれを、分からないながら完遂する努力をしたいと、そうしなければと思う。たとえ認知されないまま、貴方の人生が完結したとしても、私は、同じ時代を生きた人間として、貴方と貴方の音楽を愛していたい。

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