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前世

本物の人生というのはいつも遠くに煌々と佇んでいる。現れては消える。時刻通りに現れては、数瞬で去っていく。

ずっと彼に憧れていた。ずっと彼に焦がれてきた。私の心はずっと彼の作品のもとにあった。その彼が半径数十メートルの所にはっきりと佇んでいる。それが見える。でもいつもなんだか実感が湧かないのだ。あのひとがn-bunaさんなのだということを頭でしか理解できないのだ。 今日も彼は気が付いたらそこにいて、静かに言葉を紡ぎ出した。少し声が重かった。でもその息を継ぐ音が少しずつ彼の輪郭を象っていった。

泣いたのは音楽に感動したから、というよりきっと人生が苦しかったからだ。
苦しい。「あの頃は良かった」、そう彼は、彼の話のなかの人物は言った。私にとっての「あの頃」はこの曲たちを聴いていた頃だ。思い出す、ヨルシカに全身で浸っていた昔のことを。直後に現実が押し寄せる。「いま」、ライブを聴いている いま は、あの日々とずいぶん遠く離れてしまった。途方もない今。乾燥と疲労の毎日。受験勉強。いちばんに愛していたヨルシカまでなおざりにして、こんな所まで来てしまった。
ヨルシカに、彼に対峙するたび、彼に出会うたびに、生き方が分からなくなる。彼こそほんとうの生き方をしていると思う。彼こそほんとうの人生の在るべき姿だと思う。好きなことをして、音楽をして、文学をして、芸術をして、ひとと一緒に何かを成し遂げていく。物語を完成させていく。彼の生き方(の一片)、彼の成し遂げたこと、完成させた作品、そういうものを見ていると自分の人生はおろかどんな人の人生も偽物に見えてしまう。彼だけが煌々と輝いている。ひとりで、私を置いて、ずっと高いところまで昇って征ってしまう。彼への憧れと同時にそれ以上にきつい、自分が何も成し遂げていないことへのもどかしさを感じる。このまま死にくたばるのだろうか。貴方にはずっと届かないままなのだろうか。でも切実に、私は貴方に届きたい。だから分からなくなる。このまま生きていていいのか分からなくなる。

彼は私の存在すら知らないのに、私はどうしようもなく彼に想いを掛けてしまっている。彼が人生の中でいちばん大切な人になってしまっている。こんなアンバランス成立しない。ありえない。だから少しくらい彼は、彼を愛する遠くの人間の数々に思いを馳せてくれていたりするのではないか。そう期待したこともあった。実際彼はラジオでファンに心のこもった言葉を投げかけたことがあった。でもそれはきっと間違いだ、今日のライブでそう感じた。彼は彼自身の過去で、思い出で、創作で、作品で、いっぱいなのだ。私たちのことを念頭に置いている余白などきっとない。だって私は感じてしまった、この歌たちが投げかけられる対象は一点に向かっている、と。どこが遠くの一点に。そこにいるひと、ひとたちのことで彼はいっぱいなのだ、きっと。
サブスクでヨルシカを聴く時、この歌はほんの少しでも、私たちみたいな一般大衆の片隅のひとびとに向けて書かれているのではないかと疑ってしまう。だってこんなにもまっすぐなsuisさんの歌声が私の心を突き刺すのだ。彼らの心の先がこっちに向いているように思えてしまう。
でも今日はそう感じなかった。歌声はホールに響いて、飽和して消えた。私にはそう聴こえた。その言葉たちはこっちを向いていなかった。遠く一点を貫くような強さがあった。同時にどこまでもヨルシカ自身の内側へ向く悲嘆と追悼があった。そしてそれらは優しくもあった。でも私はそれらを受け取る立場にはなかった。私は他の誰かに向けられた歌、あるいは彼自身のために作られた物語のおこぼれを貰っているかのような…。どこまでも遠く羽ばたこうとする彼らに私たち自身が並走するような、時間だった。遠いところに自己完結してる彼らだからどこまでも神聖なものになっていってしまう。だから祈ってしまう。手を組み合わせてしまう。彼らの物語が壊れないように。suisさんが『だから僕は音楽を辞めた』を歌い切れるように。私はその曲が終わった時ほんとうに安心したのだ。私のためになるわけじゃないのに、彼女自体の完結した幸せを願っていたのだ。

彼が、ヨルシカが、私の望む人生の体現で、目標で、だから私は彼や彼の物語のなかの人物と自分を比べてしまう。結局自分が偽物にしか見えなくなって嫌になるだけなのに。
私には彼のような創作家になりたいという夢があった。しかしそれはあっけなく趣味で創作したいという願いに降格した。そして創作と全く関係のない勉強ばかり続けている今、その願いさえ途中停止していて、将来ちゃんと叶うのかも定かでない。私は怖い。一生勉強や仕事に人生を搾取されて、創作できなかったら。自分の内にあるものを形に残せなかったら。そんなの私の人生じゃない。ただの無名の一労働人の人生。そんなの望んでない。ただ彼になりたい。ちゃんとした人間になりたい。創作をしたい。ほんものの人生を生きたい。
でもそのために明確に足りないものがもうひとつある。「君」の存在。ヨルシカは大切な「君」を、「貴方」を歌っている、いつでも。でも私にはその存在がない。彼にはある、いや、あった。だから彼は過去を追憶できる。過去という「現実」を懐かしめる。でも私にそんな過去はない。私がするのはもはや追憶でなく妄想だ。そもそもありもしない現実を、「君」を、いつでも夢想している。私にとって「君」はn-bunaさんそのものだ。でもライブのなかでの姿しか、配信のなかでの声でしか、コラムのなかの文章でしか貴方に触れられない私に、貴方の何が分かっているというのだろう?こちら側は認識さえされていず、そんな希薄な関係では、「君」も何も、ぜんぶ架空の話同然だ。私は貴方を知りたかった。「君」を知りたかった。でもその権利すらないのですね。私は無力だ。ちっぽけな存在だ。だれにとってのなにものでもない。それは他でもない私自身のせいだ。そもそもの性分とこれまでの生き方のせいだ。私は誤った。私という存在がそもそも誤りだった。偽物。どうしてこんなに納得できてしまうのだろう。貴方ばかり輝いている。それすら幻想なのですか?夢見ているのも、駄目ですか。

こうやって自分の人生にひとつひとつ諦めをつけて行った先がどうなるのか分からなくて、今の私はその行く先にいちばんの恐れを抱いている。希望も何も無い。貴方が輝いているだけ。ただヨルシカと貴方の作品が輝いているだけ。ずっとそれに恍惚してしているだけ。

そしてその彼らさえ、いつかずっと後には跡形も無くなってしまうのかと思うと、でもだからこそ この場に、いまここに意味が産まれてくる気がする。今ここに彼らが居て、私も居て、ライブが行われていて、今だけ生きてる彼らが、今だけ形のある彼らが、同じく今しか生きていない私たちに歌っている。叫んでいる。私たちは熱心に見入っている。想いに耐えきれずに泣いている。少なくとも見た目的には、形式的にはそういう構図がある。私はそういうことを意識して、ライブ中の会場の暗ささえそれを醸し出しているように感じた。いつか皆暗闇に還る。皆静かになる時が来る。でも今は確かに、ここに生きてる人達が集って、生きてる心が集まって、皆が感情を発露させている。そう思うとスポットライトの当たった彼らが、今だけ立像してる現象のようでちょっと儚かった。光が当たらなくなれば崩れてしまう砂像みたいだった。だからもっと想いが込もってしまう。ああ好きだ、と思う。永い時の中でこの一点だけ、私たちは同じホールに集って、同じ対象に心を向けている。それだけで、響く音楽が鋭く色鮮やかに叫んでいるように聴こえるし、彼女の歌声が今だけの生を叫んでいるような感じがする。私はこの瞬間の為に生きてるのかもしれない。理性じゃなくて、感覚で、瞬間でそう感じるために。
だから参っちゃうのだ。なんで彼らのライブはそんなこと考えさせるほどに輝いているんだ。私が生きてるのは、彼らと同じ空間で彼らの心に共鳴するためなのかも知れない。その瞬間を迎えるためなのかも知れない。今、そしてこれからに横たわる現実がどうしようも無く苦しく思い通りにいかないものでも、そこと関係のない所で輝きを観測する、そのためなのかも知れない。ただ彼らと同じ空間に居たい。

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