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心臓が晩秋の風に洗われて

もう爆発してしまうと思いながら一週間を生きる。喉元に爆弾を抱えながら生きている。

秋の風に過去を思い出す。秋ってこんなに寒かったのか。思い出の中で去年や一昨年の秋の私がまた息をし出す。心臓が晩秋の風に洗われて、新鮮な涙を零している。もういない人を想って。

高校生活に救いがあったなら。たとえば独りで凍える私に手を差し伸べてくれる君が、いつだって私を見ていてくれたら。廊下の外から手を差し出して、私を学校から連れ出してくれる。二人で踊るの。宙に浮いて、制服のスカートが靡いている。そのあとは何処へ行こうね。あの青い山まででも行ける気がする。

悪夢を見た日の日中はそれが頭から離れない。現実の思い出みたいだ。美しい景色だけを見ていたいのにどうして夢はいつも見たくもない景色ばかり映すのだろう。そんな夢の中身だって夜になったら忘れている。それが次の悪夢を見る準備だと言うなら、もう忘れないでいていいよ。

SNSで日記をつけて公開することをどう思いますか。死ぬまで誰も読んでくれない文章を溜め込むなら、共有して、言葉の種を広げたい。でも日々の心の動きを不特定多数に見せびらかすのは野暮だとも思う。そもそもTwitterで呟くことと日記で書くことの区別なんてできているのか。日記をつけることが陰湿な作業でなくありたい。出さないとすっきりしない鬱憤を吐き出すような作業でなくありたい。3年日記なんてつけてたの何年前だっけ。自分が生きた記録さえ自分で言葉に遺さなきゃ、誰も知ってくれないもんね。せめて自分自身には、日々の中で考えてたこと知っていてほしいよね。なんて考えてしまうので日記はたぶんしばらくつけない。

風の匂いが分からないなんて、そんなに不幸なことはない。窓を開けても、風を受けても、草の匂いのひとつもしない、そんなの生きている意味がないよ。いるべき道から外れるときにいちばん、生きている喜びを感じる。外で草木が揺れていたり春に川のほとりに菜の花が咲いているだけでいい。人生や社会という特急から下車して置いていかれるならそこがいい。

前橋の風が僕を掻き消してくれる。誰も見守ってくれないのに等身大の質量で現実に固定されていて、心は地面に擦り付けられているような僕は傍から見たらきっとただの苦しみの塊だ。それが集約してこびり付いてしまう前に、風が指先から解いてくれる。いっそ最初から居なかったことにしてほしい。

夜に白いワンピースで出かける。綺麗だから。夜の藍が白い布に透けたら、海みたいでしょう。幽霊なんて言わないで。私は生きている。これ以上ないほど懸命に生き苦しんでいる。それが分かったらもう現実には目を閉じて、好きなあの詩を口ずさもう。ともしび風にぬれて。ともしび、かぜに、ぬれて…。川の橋にもたれて冷たい大理石の柱に指先を添わせる。それが夜の温度。つやつやしているし、心臓みたい。貴方の心臓は温かいでしょ。そう返す君の肌が白い。微睡む瞳と緩く上がる口角。髪が靡いて川の方へ誘う。体が段々曲がって川の方へ倒れていくから、「いかないで」と呟く。君は目を細める。生きているうちに、それを言ってほしかったなあ。君はまだ生きているでしょ。細い腕を掴んでぐいっと橋の方へ引き戻す。君はへらへらしている。このあとは何処へ行こうね。あの青い山まででも行ける気がする。

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