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静かな痛み

 人生で初めて、というのは不意に訪れる。ドクターストップを受けるなんて思ってもみなかった。

 初夏、何をしても気持ちがいい風の吹く頃

 毎日の仕事はそれなりに面倒はあるけれど、そこそこのやりがいと手応えを感じる。これがアラサーの強さか、かっこいいかも、なんて飄々としながら資料を抱えてせっせと歩く。トローチを舐めて、先へ急いだ。

 月曜日、どうも調子が悪い。もしかしたらサザエさん症候群を引きずってしまったかな。いや、紛れもなく熱がある。久しぶりの有休は、辛い中でも、日々のレールから外れる気持ち良さがあった。
 いつもの内科は面倒見がいい。でも、その日は以前に起こした扁桃炎の薬をもらうばかりで、喉は診てもらえなかった。コロナ対応だから、仕方ないよね。

 1週間が経った。さすがに熱は下がったし、薬も飲み切ったから仕事に戻ったけれど、どうも体が変だ。毎日疲れのピークを午前に迎えて、午後は不調をごまかすことに夢中になるほど、くたびれていた。
 次の月曜日、いつもどおり出勤すると、

「おはようございます!」

 が聞こえない。たしかに言ったはずなのに。
まっすぐ先にいた上司と目があった。冷ややかな痺れが全身を伝う。わたしの声が出なかったのだ。

 そよ風の中に日差しで汗ばむ季節、わたしは人生で初めて、長期間の休みを余儀なくされた。
 ドクターストップにより、喉を守ることは会話をしないことを意味する。賑やかなカフェにいても、虚無感は抜けない。コーヒー1つ注文するのは筆談だった。気の利く店員さんは、聾の方と同じ関わり方をしてくれた。

 歌う、話す、笑う、泣く、怒る

 声は、ここまでアイデンティティとして働いていたのかと実感する。少し高い線の細い声は、気張って生きるわたしには、ちょうどよくお気に入り。また戻ってほしいけれど、自分の声を忘れそうになる。「一生治らないかもしれない」の医者の一言が、脳裏をよぎる。いつ終わるかも分からない不安は、迎えた夜の数だけ、わたしの肩にのしかかった。取ってつけた前向きさをはねつけて、沈められるほど、無力だった。

 心が疲れたのではないか、と囁く声が聞こえる。そういう感じね、と一瞬で距離をとる人もいた。一方で、ゆっくり休んでね、カバーするから、と言う声も聞こえる。何も言わずに助けてくれる先輩もいた。

 一番身近な夫は、何も変わらず、温厚で優しかった。実家も、大病となれば支えてくれた。

 耳を澄ましてそこにいると、自然と人となりが見える気がした。失っただけ新しい勘を得て、適応するのを肌で感じる。

 診断を受けた週末、海へ行った。風は強くて、細波に揺れながら海は白く光る。過ぎ去るバイクの音がやけに大きかった。

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