目下、作戦実行中(引っ越しとこれから先の話)

こちら、ぽつぽつ悩みながら書くので、もしかしたら数日間、思い出した時に書き連ねるかもしれない。(と思ったら、書き終わって無事決意も固まり完結したので、本日をもって完!)

引越しすると決めて四日。【本当に、引っ越すのか?】という、感情とも似た、ただ無垢なものみたいな単純な質問が、私の中に何度か現れている。本当に?という問いより厄介なことはないと個人的には思っている。とてもシンプルかつ嘘や誤魔化しの効かない問いだからだ。空を仰いで"オー マイ ゴッド"というのは、こういう時に使うのだろうか。

今回引越しで"成し遂げたい"と思っていることは、生活の一新なのである。方向性はあり、そちらの方へ向かっている。がしかし、本当に上手くいくようなものなのか。
何の保証も貯え(それこそ何の貯え?という話なのだが)もないまま、「やってみたい!」という単純な喜び一つに動いていいようなものなのか?!別にいいとは思うのだけど(明確なこれを止めるための理由は、たぶんどこにもない。)、何となく何かをつついたり心配して?みたりしている。これは優しさなのだろうか?ただ漠然と心配なだけなので、為になるかと言われたら正直"何の貯え"にもなっていないので、たぶん意味は無い。
別にそこまで気構えなくてもいいようなものかもしれないが、結構考えている。何を?と言われると、「座禅しています。」としか言いようがない無為な時間で、書くと頭をぽりぽりとしたくなるような、恥ずかしくなってくる。

と、ここまで書いていたら、今の住まいのお友達(今シェアハウスに住んでいます。)に「こっちゃん引越しするの?」と聞かれた。

人に聞かれるとつらつら答えが出るものである。さっきまでのは何だったのか。やはり無為だったのか。


「つくりたいと、思ってしまったんだよね。」この前の合宿で、そう思った、という話をした。その後何をどう話したのか、あんまり記憶にない。特に何も聞かず、その友達は、「そういうのって、思ってしまったらそうせざるを得ないみたいなとこあるよね。」と言った。そうだな、と思わずその言葉に強く頷いた気がする。

話しながら、先の自問自答は、【これは確かな思いなのか?】というものだと気付いた。

点と点でその友達に話したことを書く。

6月から「つくることがしたい」と思って日本料理のお店でアルバイトをはじめて、そしたら引っ越しにまで話がなってる。こんなに本格的にやり始めることになるとは、自分でも想像を超えたこと。

『つくりたい、その理由は?』

引越し先は、葉山あたりで探してる。自然がある場所がいいなって。今、朝起きて、目減りしていくバロメータをなるべく減らないようにって暮らしてる。そのこと自体が嫌になることが多くても、都心を離れようとまではいかなかった。でも、やりたいことがあって、つくるとなると、自然のある場所に住んで、環境を変えて自分の身に合った暮らしを、と考える。

『環境を変える、その理由は?』

要するに、『つくるために、環境を変える。』という2つの文節を確かめたかったのだ。
今の自分の気持ちを疑っても仕方がないことなのだな、ということも友達とのやり取りからすごく思った。やりたい気持ちに『なぜ?』は、蟻地獄だ。

冒頭で、「今回引越しで"成し遂げたい"と思っていることは、生活の一新なのである。」と書いた。計画的変更である。人生、何があるかわからない。

次いで追伸をここに書くならば、私は「先はどうなるかわからないよ。」と言って暮らしている方である、と自分では思っている。高校をジリジリと椅子に座って何とか卒業してから、上京して自由を得、その順風満帆自由の風が強まった気がしている。何が起きたかなんて書いたらキリがないしとても面白いので聞いてくれたら喜んで人生のいきさつを話し始めると思うのだが、実際こんなにわからないよと言って生きている私でさえこんなにもわからないだらけが起きるのだから、きっと人生、相当ここにあるものは未知数なのだろう。


書いてみて、生活の変更、引っ越しへの決意が無事決まりました!


そして、決めると、途端に猛烈な不安と吐き気が襲ってきております。この苦しみも、今は肥やしなんだろうなと思う。なぜそう思うのかは、次のnoteに書きます。
抱きしめてみようと思います。


こう感じていることを言葉に出来るのはとてもありがたいことだなと思う。書いてからしばらくして、初めて自分で何か意思を持って決めた時のことを思い出した。

中学2年生の夏、部活をやめたことである。陸上部に入り、1年と少し走った。楽しいとか苦しいとか以前に、なんで走るのか、意味が見出せない気がした。毎日練習をし、大会に出て、目標を設定する。その日々が、私には乗り越えられなかった。私なりに考えていると段々、私のやりたいことは走ることではない、違うという気持ちがハッキリしてきた。
ただ、何とこの気持ちを表せばいいのか分からない。
最初は適当な理由をつけサボり、途中からそれを通すのもキツくなって、無言で部活を休み始めた。その時は、特に何かをしたかった訳ではない。ただ、嫌だった。だが、話したとてヒトカラはその行動の動機が幼稚園児の駄々っ子と思われる気がして、なお一層私を伝える言葉が見つからないのだった。意味のあること、をちゃんと伝えるのは難しい。その頃は、家に帰ってぼんやりしていた気がする。
まだたぶん、外で荒れ狂って遊んでいるだとか、勉強をしているだとか、何かやりたいことを見つけたであるとか、そういうことであれば、人は私の謎な行動に納得したのかもしれない。ただ、納得しやすかった、というだけだと思うが。
その当時、勉強も放棄していたことの一つだったから、相まって「コイツは何をしたいんだ?」と周りからは少なからず驚かれ、親はうろたえたと思う。私だって知りたい。

ともかく、私が何をしようとしているのか、それが"言葉にならないし確かにあるのに空を切るようなものである"問題で、もう一つの外交的な問題は、『どう辞める訳を告げたらいいのかが分からない』というのが目下その当時の私の一番悩ましいことだった。前者は、探し物をしている時間で、いつか答えに辿り着くし、今過ごしている時間とその先が答えに近いものだと思うよ、だと思う。後者へはかなり雑な対応をし、適当な嘘をつくこともせず(これは私の信条が許さなかった)、何も理由を言わないまま、部活に顔を出さない時期が長くあった。運悪くも1学期ほどはいじめられてしまったりしたが、これは自分の不外交が招いたことだと思う。

この時期は、私がはじめて、人生そのものを自由なものとして扱い、私の好みで過ごす時間の意思決定をした場面だった。

結局、言葉にして人に伝えられるものは見つからないまま、人生の深い海の底に沈んで無言のままに過ごした。とても歯がゆい思いをした。

今、同じようにただの単純な『こうしたい』という方向性や意志を思いを抱えている中で、言葉に出来る幸せと、これまでの経験を噛み締めている。


励みになります☺️