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私に花を贈って

4月10日、春の日。

今日、私は私とデートした。

電車が来る1時間前から駅のホームに座って、ずっと自分との対話を続けた。

本を読んだり、日向を歩き回ったり。

人とのことはあまり考えず、ただ、今思い浮かぶ思考たちと戯れていた。


なぜだか少し、泣きたいような日々が続いていて、私自身と2人きりになる余白の時間が必要なのだと察した。

今日もまた、度々じわっ〜と滲む世界をどうにか飲み込んで、それでも不思議と足取りは軽くて、少しずつ心まで軽くなっていった。


“ひとりもいいかもな。”
“ひとりでも楽しく生きていたいな。”

ふとそう思って、自分の頭に入ってくる情報をいつもより減らすことを意識した。

SNSと距離をおいて、
イヤホンを両耳に挿して、
目は自分が選んだ本の文字を追わせた。

世界をシャットアウトして、ひたすらに自分と対話した。

最近の私は、人に意思を委ね、選択を合わせている節があった。

「あぁ違う。これは絶対に違う。」
そんな声が心から漏れてきて、見て見ぬふりができないほどになっていた。

“私がどうしたいのか”
その輪郭が徐々に歪んで、心が小さく悲鳴をあげていた。


私は小さい頃から、自分の本心を誤魔化すことがとても得意だった。

それでもやっぱり、段々と違和感を膨らませては、そのたびに生活に余白の時間を生み出して、心に選択の余地を与えて、どうにか生きてきた。




本心と対峙することは怖い。

怖いし、とても、痛い。

誰の意見とも関係なく、自分の心に従って努力を続けることは、時にとても深い孤独を感じる。

逃げたくても逃げられない。
言い訳も、手を抜いたことも、自分自身がどうしても気付いてしまう。

自分にとって大切なことほど、小さなことでも心に直接届いては、喉につかえる。そんなことばかり。

だから、色んな言い訳を盾にして“傷つきたくない”と本心から目を背ける。

けれど実は、
逃げている時の方が、知らぬ間に自分で自分の価値を下げてしまっていたりするのだと思う。

「今の私にはできない」
「私にはそんな才能なんかない」
「私なんか…」

あと何回、そうやって自分を否定すれば、自分を大切に思えるのだろうか。

否定し続けた先に、私が“こうでありたい”と望む私は本当に存在するのだろうか。



“私の価値は何によっても決められるものではない。”
“この世の全て、その価値を推し量るものではない。”
と、そう思う。

だから、それなら、自分から生まれる言葉や思考の端々にも、その価値を推し量らせるような片鱗を残さない努力も必要になる、とも思っている。
気付かぬ間に刷り込まれたものほど厄介だったりするから。


何度も言うけれど、
本当の心の声を聴くことはすごく難しい。

一生懸命になって勇気を出さないと直視できないし、その道を選ぶことはもっとずっと怖い。

でも、だからこそ、
そうやって自分で選んだ道の上だからこそ、“この道を大切に生きよう”“精一杯の努力をしよう”
と、そう思って生きていけるのかもしれない。

新しく自分で道を選んだ時、心許ない言葉に傷つくことがあるかもしれない。離れてしまう人がいるかもしれない。

それでも、自分は自分を裏切らないと決めて、信じて、進んでいくしかない時だってきっとあるのだと思う。

そのうち、きっとその道中でも、ありのままの姿で生きる自分のことを、同じように大切に思ってくれる誰かと、何かと、必ず出会えるはずだから。

そうしたら、世界はきっともっと明るくて息がしやすい場所になるはずだから。


だから私は、この心の叫びに目を背けることを止めることにした。

すぐにこの選択を愛せるかは分からない。

でも、私が私を否定しないために、この道を歩むべきだと思った。
自分で考えて、自分で決めた。

不安も恐怖も、想像であるものたちは、
自分で選んだこの事実には到底及ばない。

何度も逃げて、目を背けて、それでも捨てきれなかった私の心の声。
この先に歩む道筋も見えないけれど、今はそれでいい。



今日も明日も明後日も、
あるがままの私で、自分をそっと愛しながら私の歩幅で生きていこうと思う。

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