「間違う」ということは罪深いことではない−−魔法少女まどか☆マギカ小論

はじめに

 この文章は「100人がしゃべり倒す! 「魔法少女まどか☆マギカ」」に送った原稿を、確認を取って問題がないため、再掲したものである。

 まず、背景をちゃんと説明するならば、この文章は2011年に書かれたものであり、劇場版などの文脈を踏まえていない説明となっている。本来、このような小論めいたものは、現状を踏まえてアップデートする必要があるとは思われるが、しかし、その余力がとくに無い(少なくとも、書き直してアップしようとしたが挫折した程度には無い)ため、そのままにしている。

 とはいえ、改めて読み直してみると、「まどか☆マギカ」を抜きにして、一つのテーマとして考えていたこととして語っており、その部分に関しては、このままでも良いだろうと判断した。しかし本来判断するべきは、読者である。もし、なにか感じ入ることがあれば、転載した自分としても幸いである。

 細かいところは直しているが、全体の論旨は変えていないつもりである。また、気になるところがあれば、上記リンクから本を購入してほしい。

本文

 恐らく、「魔法少女まどか☆マギカ」とは「正しさと幸福」という部分をめぐる問題であると感じます。実際に、まどかの母がまどかに語るシーンであったり、あるいは佐倉杏子が父親について語るシーン、そして美樹さやかの失恋など、作中では常に「そのような正しさ」が必ずしも望んだ結末を得られないということについて語られます。

 多くの魔法少女が何かしらの願いを求めるとき、その願いが実は自分が望んでいた結末を保証しないということを、その願いが叶った瞬間にしか理解できない。この構造は、私達が魔法少女にならなくても、良く観る光景です。そして、多くの人々は、簡単に願いが叶ったりしません。ですので、「こうであるべきだ」という思いと、「それが実現したらこうなるだろう」という因果律の混合について、気がつくことは大抵の場合、ないといっていいでしょう。

 しかし、逆に願いが叶い、願いが叶うことによって裏切られた人間というのも存在します。一度でも願いがかない、その願いに裏切られた人間は「まどか☆マギカ」の世界を生きているはずです。

 問題は、「こうあるべきである」ということと「それが実現されたらどうなるか」との混同による錯覚です。「こうあって欲しい」と願う世界と、「だからこうするべきである」という因果というものは、私達の知性が有限であり、であるが故になかなか埋められない。自分が良かれと思っている行為でも、その行為は私達を裏切り、別の結果を派生し、そしてその結果に苦しめられる。これは哲学的にも、何度も繰り返された、いわゆる典型的な問いです。

 多少ネタバレを含みますが、それに対して、最後にまどかは究極的に間違う。それはキュウべぇの驚きである「因果律への反抗」という言葉に表されている。究極的に間違ってしまうことこそが、問題を解決しないまでも、よりいい方向へ進める可能性がある。「正しい」と奢り、それを実行することは簡単ですが、しかし「間違うことを恐れないこと」のほうが実は難しく、だからこそ、もしかしたら突破口が開けるかもしれない。「正しいことをする」より、「間違ったこと」をすることの困難さは、私達が良く知るところだと思います。

 その意味では、「まどか☆マギカ」の最終話に向かうまでの過程にとって、何かしらの教訓があるとするならば、私達は無力であること、間違っていること、それ自体は何も罪深いことではないということだと思います。私達が力を得たとして、それが自分の望むものを導くとは限らない。

 だとするならば、間違っていたり、無力であったり、そのようであっても、貴方はいつのまにか、自分の望んでいたものを導くかもしれない。そして、そのような「間違うこと」ことが、時として「正しさ」を導き寄せるという逆説こそ、注意深く考えなければならず、そして実は、そのことこそが「魔法」であるということを教えてくれるのです。

(初稿: 2011年、改変: 2015年)

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