僕がソーシャルメディアを利用するさいに感じた「不健全さ」について

 自分はどちらかというと、ソーシャルメディアに愚痴を吐くのが苦手だったりする。それは誰かに見られている可能性があるかもしれない、というのもあるし、その影響力を自分で抑止出来ないというのもある。そういう意味で、どちらというとネガティヴな感情というのは、出来るだけプライベートの処で吐き出したいという気持ちは、少なくならずある。

 ……という風に割り切ることが出来れば誰も苦労はしないわけで、一年に一度くらいは、自分で抱えこんだものを暴発してしまって、あることないことをソーシャルメディアに載せて吐き出してしまう。そのあとに、二四時間くらい「一度書いたものを消すのはどうなのか」と悩んだ挙句、その胸を書いて投稿を消したりしている。

 つい最近も、そういうことをやってしまったのだが、しかし、そこでソーシャルメディアが持つ根本的な不健全さというのも、漠然と理解した。それは簡単に言ってしまえば、結局のところ、自分が発言することというのは、自分の殻からは抜け出せないということだし、自分から発言することというのは、自分に有利になるような発言にどうしても歪められてしまう。

 僕だって、そこまでナイーヴではないから、中立的な発言なんて一個人には出来ないということも理解出来るし、ある程度、居酒屋気分で有ること無いこと吐き出せるからこそ、ソーシャルメディアというのが、日常においてのガス抜きになることも解っている。誰しも、自分を肯定的に捉えて貰わないと耐えきれない時期もある。

 だが、それを吐き出し続けると、恰も「自分が正しい/相手が悪い」という考えに依存してしまうようになってしまう自分がいるのに気が付いた。一度言葉にすると、それを再帰的に信じてしまう側面があることは疑いきれない。たぶん、ていのいい言葉に直すと「自己暗示」というものだろう。そうすると、「自分の悪いところ」が生み出している問題が覆い隠されてしまう。

 とはいえ、ソーシャルメディアは「他人が突っ込める」ではないか、という意見もあるけれど、護身が高度になってくると、「同情したくなるような投稿」みたいな感じの投稿になってしまっている状態に作り直していて、実はそれは不健全だ。

 もう一つ不健全だな、と思うのは、そういう嘘って、わかる人にはわかっていて、しかもそういうのがわかる人ってのは身近な存在だったりする。つまり、そういう風に振る舞うことで、まず最初に無くなる居場所というのは、自分の周辺だったりする。だから、なおさら危険だったりするように感じた。

 だから、自分の現状について、ネガティヴに語るときは、ある程度気をつけないとなと思う(こうして人は飯の写真と、猫の動画しか共有しなくなるのかもしれないが、これはまた別問題だろう)。

 「一番の問題は自分の感じ方です」といったような、よくある自己啓発に対しても頷けはしないけれど、しかしソーシャルメディアで自分が投稿することを通じて、自分の考えを強化して身動きが取れなくなってしまう可能性は考えないといけない。

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