『あたし彼女』を読む、あるいは携帯小説は何をリアルとしたのか

はじめに

この文章は、当時携帯小説が流行ったときに書かれたものである。その当時、「携帯小説」という媒介によってのみ、つまり彼女たちの文章の拙さをもってして、その作品を切り捨てるような、退屈な文章が氾濫していた。しかし、ライトノベルの立ち位置が、最初がそれこそ「カストリ小説」のような扱われかただったことを忘れてはならない。

どのようなものであれ、それが作品であり、受け入れられる以上、何かしらの「リアル」を内包している筈だ。それを無視するのは良くない。だから、自分なりに徹底した読解が、以下に当たる。

すでに、携帯小説は話題にはならなくなっているのが現実だろう。ある意味において、この文章はその時代的な記録でもある。

本文

 さて、日本ケータイ小説第三回にて『あたし彼女』という小説が受賞したを受けて、多くの人が困惑を示していた(ように見えた)。そして、多くの場合、「これははっきり言って小説ではないし、拙すぎる」という指摘がされている。

 はっきりいってしまえば、これは小説としては余りにも拙すぎる。だが、この指摘は公平ではない。この作品を「小説」と見做したが故に、「小説として拙い」という評価が出てくる。しかしこれを《詩》と見做した場合、ちょっと面白いのだ。少なくとも、個人的には『恋空』のときよりよっぽど面白い、と思っている。《詩》として見做した場合、調子もいいし、読者に語りかけるようにして書くという意味ではかなり成功しているのではないか、と思っている。

 ただ、注意しなきゃいけないのは、これは果たして《言文一致》なのかというところはカッコに入れておきたい。というのは、たぶんこれらの言葉は、厳密には《口語》を装った《メール文体》なのではないか、というのが直感的にあるからだ*1。この辺りに関しては携帯電話メディアに見識のある人々に、少し判断を仰ぎたい。また、《小説》というカテゴリから、《小説》というカテゴリを破壊し、《詩》に無意識的に急接近してしまうような作品が生まれてしまうというのも、これも面白い傾向である*2。

 さて、本題に入る。最初に結論を出しておくとするならば、『恋空』よりも『あたし彼女』のほうが、個人的に面白いと思った理由は、二つある。一つは「エピソードがちゃんとした回帰的な構造になっている」、そして「そのエピソードが一貫した反復構造」になっているということである。これはちゃんと説明しよう。

純粋性のポリティクス

 さて、まずアキという人物が登場する。アキは男を手玉に取り、セフレも男友達も彼氏も関係ないという。それは自らがかわいいからであるし、また束縛されるのが苦手だったからだ。例えば下の文章がそのような内容を示している。

てか/アタシ/彼氏いなかった事/あんま/ないし/当たり前/みたいな/中学から/今まで/男尽きた事/ないし/向こうから/寄ってくるし/別に/アタシから/誘ってる訳じゃないし/男ってさ/アタシみたいに/顔良くて/スタイル良かったら/磁石みたいに/くっついてくる/みたいな/バカみたい/尻尾ふって/アタシに/ご機嫌取り/まぁ/気持ちも/わかるけど/みたいな

 だが、このような過度な露悪性は、《純粋性》の裏返しとして現れている。もちろん、それは彼女なりの都合のいい言い訳に過ぎないかもしれないが、しかしそれを正当付けるのは、あくまでも《嘘》に対する嫌悪感である*3。例えば下の文章のように。

一途とか/ある訳ないじゃん/みたいな/逆に/嘘くさくない?/一人の人を/一生好きって/絶対/無理だっつ~の/世の中/見てみなよ/浮気/不倫/世間の常識/みたいな/浮気した事ない/言う奴/アタシ/普通に/嘘だろバ~カ/って/思っちゃうし/今一途でも/いつか気になる奴出来たら/もぉ/その時点で/嘘/決定/みたいな/だったら最初から/言うなって/話になるじゃん

 なぜ上記の文章にて《純粋性》の裏返しとしたか。というのも下のような文章が出てくるからだ。

身体を/念入りに洗う/何度も/何度も/さっきのセフレの/感触/流すように/爪で/ガリガリ/胸や/腕や/お腹や/腰/身体中/赤くなっても/爪で/落とす/汚い/汚い/汚い/汚い/でも/汚いのは/アタシの方だ/アタシの全部が/汚い/トモから/逃げ出して/違う男で/寂しさ/埋める/アタシは/汚い…/身体を流す/鏡が/シャワーの/お湯に/触れて/アタシの顔が/見える/ねぇ/アタシ/アキだよ/カヨじゃないよ/トモ…

 普通に理性的な人間であるならば、「こういう帰結になるんだから、ムチャしなきゃいいのに……」ということになる。しかし、その予測は余りにも早すぎると思う。

 というのは、以前の状態というのが、《純粋性》の裏返しとして構成されているからだ。その要素はまず《嘘》《偽善》への憎悪という正当性の確保、というその事態が《純粋性》を裏返す。もう一つの指摘としては、彼女が《特権的な彼氏》を作らないという事態そのものが、彼女の《純粋性》への志向を与えている。恐らく、本当に露悪的であるならば、《特権的な彼氏》を作りつつ、浮気をするという状態も考えうるからだ。

 しかし、その選択を、アキは取らない。
 直感的に言うならば、《特権的な彼氏》を作りつつ、浮気をするという事態は、「そもそも、その彼氏を本当に愛しているのか?」という不純性を持ち込むからだ。だから、ここにおいて「セフレの感触」を否定しなければならない。従って、過去の状態において全ての男を平等に見下すのである*4。それは逆にいうならば、彼氏という特権的な地位を《空白》にすることで、その《純粋性》を保つという戦略に過ぎない。

 しかし、もう少しふみこんでしまおう。その《特権的な彼氏》が成立するのは何ゆえに、という問いである。それは明確である。それは他者評価であろう。実際に、彼女が「男達に束縛されない自由な生き方」という選択をするのは、あくまでもカッコ悪い/カッコいいでしかないだろう*5。

 とするならば、その自由を他者において証し立てなくてはならない。従って、男をコロコロ代えなくてはならないわけだ。しかし、恋愛の構造として、自らが《特権的な他者》として指し示した相手が自動的に《自らを特権的な他者》として認めてほしいという構造が生まれる。《特権的な他者》とは、言ってしまうならば、他の誰でもない、代わるべきのないものとして表さなければならない。従って、アキは彼氏が未だ未練を引きずっているカヨという元カノが現れる*6。そこで、自らが《特権的な他者ではない》ということを表してしまったが故に、悲しみを生ずる。

 冒頭で、自分が『あたし彼女』を『恋空』より評価するのは、このような「回帰性」が物語に組み込まれているからだ。

今まで/この顔で/男と/触れ合ってきた/この顔で/チヤホヤ/されてきた/自分でも/思ってた/なんで/アタシは/こんなに可愛いのかな/みたいな/でも/トモは/違う/アタシじゃなく/カヨを見てた/カヨに似てる/アタシといた/アタシはカヨ/カヨはアタシ/生まれて/初めて/この顔が/憎い/こんな/顔で/生まれた/アタシが/悔しい/ここで/初めて/涙が出る/抑えてた/涙が/溢れ出す/一粒/二粒/どんどん/出てくる/辛い/辛い

 だが、アキはもう後戻りが出来ないだろう。いままでの自由はまさに無軌道で拡散するような《空白》の、あるいはこういってよければ《不特定の他者》に向けて証し立てるような男の乗り換えは、むしろ《トモ》という《特権的な他者》に向かって収縮するように形成されていく。しかし、それはいままでの行動が決して《共同体のそと》にいる人に対する行動ではなかったように――つまり評価する他者の外に対する行動ではなかったように――、それは《トモ》以外の男をただ外に追い込むような行動でしかないだろう。例えば、下のような文章がそうであろう。

セフレの/財布から/勝手に/金を/パクって/ホテル代を/払って/外に出る/一人で/歩くのは/怖い/でも/トモを/失う方が/もっと/怖い/一人で/夜/歩いて帰る/空を見て/トモを/想って…/アタシ/変わるから

 これほどヘンな文章はないだろう。
 というのは、「アタシ変わるから」という文章を書きつつ、「セフレの財布から勝手に金をパクる」のである。

 もちろん、私が代わる!という行動は、徐々に変わればいいわけだから最初はこんなものであるだろう、という言い方はできる。しかし、さらに下の行動はなにかヘンな気持ちにならざるを得ない。

携帯持って/チェックする/やっぱり/トモから/連絡は/来てない/当たり前だけど/でも/アタシからも/連絡は/まだ/しない/そして/携帯の/メモリーを/見ていく/アキラ/コウジ/サトシ/シュン/タカシ/ユウタ/みんな/みんな/いらない/男の名前を/全部/削除/していく/300人近い/メモリーが/女友達と/家族と/トモで/50人も/いかない/それでも/いいし/もぉ/男は/いらない/トモだけで/いいし

 この奇妙さ。
 なぜ奇妙なのはいちいち説明する必要もないだろう。
 というのも、《男友達》であったとしても、気の合う友達や、恋愛感情を抜きにして仲の良い友達はいるはずだ。男性側ですら、全ての女友達に恋愛感情を抱いていたらタダの痛い奴だ。しかし、この記述を見る限りでは、そのような友達というのはどうやらいないようだ。

 すると、この《特権的な他者》なるものは――、つまり他の人物が評価軸としてフラットであることを代償としている。もちろん、女友達が仲間にいるのは、それがもう一つの共同体を形成しているからに過ぎないのだが*7。なぜフラットである必要があるのか、といえば「全ての男友達は恋愛対象にならない」という形式が、そもそも「全ての男友達を恋愛対象としてみる」ということを裏側に持っているからだ。

 そこには、既に「友達」という関係は入ってこない。従って、彼女は全ての男友達を拒絶しなければならない。というのも、全ての《男友達》は《恋愛》のカテゴリなのであって、《友達》のカテゴリではないのだから。もはや《恋愛》のカテゴリにて《特権的な他者》が存在する以上、その外側にいる《男友達》は消滅する。

 さて、《特権的な他者》が現れたとき、どのような空間が開かれるのか。それは《特権的な他者》を中心とした世界であろう。その意味で、トモを愛していると自覚したきっかけが《死への自覚》であることは象徴的である。そして、その《死の自覚》は同時に《寂しさの自覚》を表象するだろう。なぜならば、《死の自覚》というのは、《孤独の自覚》だからだ。しかし、その《孤独の自覚》は、同時に《恋愛》というものを通じて、擬似的に恰も抹消されるような孤独でもある。例えば次のように。

アタシはね/トモで/いっぱいだし/トモ/アタシ/寂しいよ/アタシ/可哀想だよ/ねぇ/抱きしめてよ/アタシ/可哀想だよ/アタシ/可哀想だよ…/泣いてるよ/トモ/トモ…

 問題は、このような《特権的な他者》が中心に現れる空間において、同時に自らの存在が存在として現れるためには、まさに代わりがいないことを、その《特権的な他者》が意味付けをしなければならないのだが、しかし《カヨという存在》がそれに追い討ちをかけ続ける。

 《カヨという存在》は、まさに《特権的な他者》が意味づけをする際において、その意味付けされる立ち居地を奪う存在である。もうすこし言ってしまえば、《アキという存在》の代価性を暴露し続ける存在である。だとするならば、《カヨという存在》をその意味付けされる立ち居地から奪う必要があるだろう。だからこそ、彼女はそばにいることを決意する。

伝えよう/伝えなきゃ/はじまらない/てか/まだ/終わってないし/終わらせないし/元カノに/カヨに/似てるなら/それでもいいし/それで傍に/入れるなら/いさせてよ

 しかし、以前に「直感的に言うならば、《特権的な彼氏》を作りつつ、浮気をするという事態は、「そもそも、その彼氏を本当に愛しているのか?」という不純性を持ち込むからだ。」という文章を述べたが、下の文章においてさらに明確になるだろう。《顔》という身体の否定を通じて――彼女は風呂場ですっぴんの顔になってまで固有性を取り戻そうとした!――、その《純粋性》への志向をあらわにするとき、それは自然にセックスという行為の否定にもなるはずだ。例えば下のように。

一緒に/いられると/決まった日から/トモと/アタシの/身体の関係は/無くなった/正直/辛かった/求められないのは/淋しかった/だけど/トモが/今までと/違う目で/見てくれる証拠だと/思うし/今までは/アタシを通して/カヨといた/トモは/カヨと/キスや/セックスを/してきたんだと思う/悔しいけど/それが/現実だった/アタシも/今までは/トモがいても/簡単に/他の男と/セックスしていたし/だけど/お互い/変わったハズ/アタシは/あれ以来/他の男とは/してないし/しないし/みたいな/トモも/きっと/アタシを/見て/まだ/手を出さないんだと/思う/それでも/アタシは/我慢していた/触れ合えなくても/一緒に/いられるなら/そぉ/思ってたけど/そろそろ/解禁?/みたいな

 実は、この文章をさらっと読むと「急になにをいまさら」ということになるのだが、かなり一貫した話になっている、と自分には感じられる。

 そもそも《アキ》にとっては《セックス》という行為は、代価性の効くものであったのであった。前の文章において、問題は《アキという存在》が《カヨという存在》を打ち消して、《特権的他者》において《特権的他者》として現れることであるのだが、だが《アキ》にとってそもそも《セックス》という行為自体が、《代価性》を表してしまう以上、もはやその行為は取れない。《トモ》の問題は《セックス》に対する《固有性》を取り戻すことであり、それは《セックス》をしないという禁欲的処理になるだろう。

 さて、これ以降、《トモ》をめぐる、《特権的他者》に対する恋愛詩というのは、自分にとってはちょっと退屈ではあったのだが、しかしそれでも個人的には母親のエピソードが面白い。《特権的他者》によって、それ以外の《友達》という関係が後退する中で、《母親》という存在が、現れる。例えば、下の二つの文章。

普段は会話しない/おかんに/協力してもらって/料理/いっぱい練習したし
おかん/これは/アタシと/おかんの/秘密だからね

 さて、この意味はあとで述べるとして、トモの語りが導入される。なぜトモの語りが導入されなければならないのか?それはもう一度、《アキという存在》が、まさに代価できる存在として、彼には現れていることを、そこにおいて語らなければならないからだ。だからこそ、《カヨという存在》が《アキという存在》を抹消しなければならない。例えば次のように。

俺さ/最初から/アキが浮気する子/ってわかって一緒にいた/それでも良かったんだ/始めは/カヨと似ている/アキなら/なんでも良かったんだ/連絡/あまり出来なかったのも/カヨとして見てたから/携帯の登録名がアキで/どぉしても/自分の中で/納得がいかなかった/カヨなのに/アキ/そぉ思ってて/自分からアキに/連絡出来なかった/本当にごめん/だけどさ/こんな/未練たらたらな俺を/それでも/一緒にいたいって/言ってくれたアキを/カヨじゃなく/アキとして/見るようにした/料理を頑張って覚えて/指にたくさん/傷ついてるのも見てた/毎日毎日俺に会う/昔のアキと/全く違うのも見てた/ふりほどかれた時に/本当は/ショックだった/ハズなのに/強がるのも見てた/名前を呼び間違えて/泣きながら寝ていたのも/夜中に俺にキスしたのも/全部知ってる/今まで/アキはどんな思いで/俺といたんだろう/そぉ思うと/アキには俺なんかより/もっと/いい奴が/いるんじゃないか/そぉやって考えてた
それから/アキと/付き合って/5ヶ月過ぎた/何もなかった/この世界に/俺の中で/また/少し変わった/時たま見る/アキが/他の男といる場面/見ても/見ないフリした/だって/言ったトコロで/どうなるの?/アキという子は/そういう子で/カヨは/違う/ただそれだけだよ/束縛なんて/しない/欲しい物が/あれば買ってあげる/食べたい物があれば/食べさせてあげる/セックスしたい時に/抱いてあげる/そのかわり/君は/カヨの代わりだよ/それで/いいでしょ?/だって/アキも/俺も/お互い関心が/ないじゃない/それで/いいんだ/暇潰しでもいい/俺の空っぽ/埋めてくれれば/アキのしたい事なら/何でもする/だから/また/離れないでよ/カヨ

しかし、《アキという存在》は《カヨという存在》ではない以上、その《カヨという存在》に反乱を起すかのように、《アキという存在》を暴露し続ける。

俺には/わからない/君にも/心の傷が/あるんだよね/一人で/道を歩くの嫌いって/笑いながら/話していたけど/それに/関係があるのかな
アキと/会えない日は/なんだか/前より/一人でいる事が/寂しく感じた/カヨを/想うのは/変わらない/だけど/ズルイよね/代わりでも/ソバにいる事だけで/俺の心が/癒されたんだ/正直/アキの中身は/好きになれない/簡単に/他の男と寝る/女性は/勿論好きではない/だけど/なぜだろね/君の/心の傷は/俺には/消せない?/これは/ただの/同情?/お節介って/言葉/俺には/ピッタリだね/心の傷を/消せたドコロで/どうする?/中途半端な/思いが/俺の中で/廻る

このトモの構造も、《アキ》が最初にあったことのような、反復する構造が見受けられる。この主題は、まさに《代価性》という利便性に対する《固有性》の反乱として形成されている。《アキ》が《男》を代価する欲望であるとするならば、《トモ》は《カヨ》という《固有性》を代価することによって。しかし、その《代価性》はあくまでも《固有性》を帯びているが故に、そのツケを払わざるを得ないのである*8。そして、その《固有性》への気づきが、同じく「空っぽな世界」、つまり《孤独》の言葉として形成されている。しかし、問題は《カヨという存在》を抹消したとしても、それは一つの否認でしかない以上、「おやすみ/カヨ」という無意識の言葉を発することによって、《カヨという存在》を暴露するだろう。これを否認としないためには、《特権的な他者》の衰退が必要なのである。

トモ/私にたくさんの愛を/ありがとう/私も愛していた/だから…/もぉふりむかないで/貴方の幸せは/すぐそこにあるから…/どうか/前を見て/後ろをもぉ/見ないで…/前を…/トモ

 このようなご都合的な衰退は、確かに技法的には拙いかもしれないが、それでもツボをおさえているように思われる。そして「そして/さようなら…」と、《特権的な他者》を送り返すことによって、やっと《アキという存在》を受け入れることができるようになる。しかし、《特権的な他者》を受け入れる用意が出来たとしても、既にその《特権的な他者》は自らを受け入れてくれないという非対称性が存在するのであり、そのすれ違いこそが、一つの《悲劇》ではあるのだが、しかしこの場合はカタルシスが必要なのだろう。

 従って両者はいつまでも《特権的な他者》として開かれているという、あまりにもご都合的なシナリオであるが、そこに突っ込むのも無粋なので、コメントだけにとどめて置く。

 ここで一つコメントをしておくとするならば、《孤独》という状態を、「周囲に人間が存在しないこと」の理解とするのは、少々甘い。我々は例え、友達と楽しく話しているときですら、ふととてつもなく《孤独》を味わうことは可能だし、それは日常茶飯事だ。とするならば、《孤独》とはもう少し踏み込んでいうならば、《他者》に受け入れられるという、あるいはもう少し冒険的にいうならば《特権的な他者》に受け入れられることに過ぎない。だからこそ、「アタシ達/二人が離れないなら/この世界/二人だけに/なってもいい」のである。

 しかし、このようにお互いの心理的な構造として《カヨという存在》が衰退したとしても、しかし《カヨという存在》は、回帰的に、亡霊として付きまとう。実際に、両親にアキを紹介する場合、「本当はカヨのことがすきなんでしょ?」というからである。これにアキが怒りを感じるのは、そのような《特権的な他者》としての闘争が無効にさせられるということに対する怒りである。そして、《カヨという存在》が、また《特権的な他者》としてトモの心に現れるのではないか、という不安状態こそが、トモに対して《不信》にさせ、《怒り》を覚えると同時に、《不安》を求めずにはいられない。なぜならば、《特権的な他者》として《アキという存在》を抹消し続けた《カヨという存在》は、まさにトラウマ的なものとして立ち上がるからだ。それは《孤独な世界》における、唯一の《アキという存在》を消す相手であり、それは憎いと同時に、また強力であるが故に不安でもある。

しかし、トモのほうは果たしてこのことに気がつき得るだろうか?少なくとも、《カヨという存在》は、アキにとっては自らの《固有性》を消滅するような相手として存在していたわけだが、しかしトモにとっては自らの《世界》を立ち上がらせている存在であったわけで、ここに《非対称性》が存在している。この《非対称性》というものが、お互いに気づきうるとは限らない。だからトモは「『カヨは悪くない!』」と弁護せざるを得ないし、アキは「なんでカヨのことをかばうの!」といわざるを得ないのだ。そして、問題は、アキにとっては、この《非対称性》は、勝利の雄たけびとして現れているのに対して、トモにとっては――言い方が悪くて申し訳ないのだが――妥協として現れている、ということであろう。だから、トモはカヨを弁護せざるを得ないのである。そもそもトモにとって《カヨという存在》が《特権的な他者》として衰退したのは、あくまでも《カヨという存在》が自らの衰退を許すという行為によってであり、アキにとっては敵であると同時に、トモにとってはかなりの負債を、カヨに対して負っている。前提が違うのだ。

だが、それでもなお、アキは妥協する。

あの時/トモに言った/言葉/勝手に死んだカヨが悪い/まだカヨを引きずってるんでしょ/本とに/ごめんなさい/いないけど/カヨにも/ごめんなさい/トモは/何にも悪くないね/カヨも/何にも悪くないね/トモの親も/トモを心配して/言った事なんだよね/なんで/こう/アタシ/自分の事ばっかり/なんだろう/自分で勝手に/不安作って/被害妄想/してただけじゃん/最悪だ/アタシ

これは、世界を構成する意味づけが、《自分》から《他者》へと移項することによって、起きたのだろう、と推測することができるわけだ。そして物語はラストとして、《妊娠》へと向かう。

命の/重さに/今日/初めて/実感した/気がしたよ/アタシ/簡単に/前の/赤ちゃん/殺してたんだなぁ/最低だね/ちょっと寝て/起きたら/はい/終わり/じゃあ帰ります/で/中絶を/済ましてたよ/今回だけ/大事にしちゃってさ/同じ/命には/変わりないのに/トモの/赤ちゃんだから/産みたいって/じゃあ/前の赤ちゃんは/いらないって/どんだけ/アタシ/悪い事/してきたの?/中絶も/流産も/赤ちゃんに/罪は/無いじゃん/アタシ/罰が/当たったんだね

 一度《他者》に開かれた自己は、次々に他者を呼び込んでしまう。恐らく以前であるならば《誰にも迷惑をかけていない》で処理していたことが、《他者》に開かれることで、その意味を知る。もちろん、これはこれなりに拙いことではあるかもしれないが、しかしその意味自体は、十分に納得可能だ*9。こうして、物語は終了する。

宿題

しかし、このように読み込んだとして、「あー、なるほど!そういうことだったのね、ハイ終了」ということでば終わらない。この小説は恐らく下のような問題提起が可能である。

 まず1点。《愛》という主題を巡って、あまりにも素朴な《家族/夫婦》という帰結をどう捉えるか。自分の考えであるならば、この関係を一旦否定するところから――実際に、アキも古臭いものとして考えていたわけだが――、始まったわけだが、しかし従来の関係に戻ってくるのはなぜなのか。恐らく、これは《地方》の問題と帰結してくる問題である。

 その2。基本的に中心に立ち上がってくる人間自体が、《家族内部》の関係であることが殆どである。キーパーソンとして出てくる産婦人科の《白髪ハゲ》が、一人異質であるが、《妊娠》のエピソード自体が、全体とはかなり浮いた物語であるような印象を受けたのは確かだ。とするならば、この物語の背景にあるのは《家族》という物語である。乱暴に言ってしまえば、トモはある種の、《父親》的な役割を担っているのではないか?

 自分が一読した感想としては、《小説的》にはあまりにも技法が拙すぎるのであるが、一つの《長編詩》、あるいは《物語》として読み込むならば、上の読解で示したとおり、作品としてかなり一貫して読み込むことができる。あと正直、この解読を通じて、改めて「俺には恋愛をする資格はないかもな」と思ったりもした。あと、持ち上げたとはいえ、個人的には単行本になってもお金は払いたくないなあというのが正直なところではある。

*1:では《メール文体》は《言文一致》ではないのか、というとこれはかなり誤りだと思う。少なくとも、一時期携帯電話を使って更新していた印象からするならば、喋り言葉をそのまま写し返すのは。携帯電話の打ち込むインターフェイスではかなり面倒臭い。とするならば、ある一定の意味の収縮が起きていて、それが文体を形成していると考えてもよい。あるいは、ギャル文字と呼ばれる言葉は、むしろ《書き言葉》を意識したものだとするならば、この問題はちょっと簡単には言えない筈だ。

*2:実は、この現象に近いことをやっていた作家がいて、それが死刑囚であるところの、永井則夫氏であった。『無知の涙』から『人民を忘れたカナリアたち』における《詩》から《散文》への移項はかなり興味深いところではあるのだが、ここでは註に記すだけに留めておく。何かを語りたいとき、まず始まりの言語行為は《詩》なのではないか。しかしそこには限界がある。この辺りにはアドルノの『アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である』という、余りにも引用されて陳腐になるほど陳腐になりすぎた言葉が挟まるのだが、ここでは除く

*3:あとで次のような文章が出てくる。「偽りの/優しさって/本とは/残酷すぎるね」しかし、アキはうすうす気がついていたはずだ。だからこそ、《傷つかないように》、先取りを行い、ヒニリスティックに語る。そんなのは恰もわかっていたというフリをすることによって、それは全て予め知っていたことになるだろう

*4:「彼氏も/男友達も/セフレも/み~んな/平等ラインだし」

*5:「地味に/昼でも/夜でも/一人で/歩くの/ちょっと/ビビッてるよね/まぁ/カッコ悪いから/絶対/人には/言わないけどね」

*6:さて、些細なことだが、なぜカヨが交通事故で死んだのか、という物語論的解釈になるのだが、これは恐らく《特権的な他者》が《特権的な他者》であるということが前提となっている。そして、この場合の《特権的な他者》の条件は、《純粋性》を持っているということであろう。つまり、《特権的な他者》の資格を剥奪されずに、さらに《自らが特権的な他者ではない》という条件を同時に満たすのは、事故で不可解なく死んでしまうという事態しかありえない。しかし、果たしてそうなのだろうか?もし彼氏が元カノに振られたとしたらどうだろうか?現実の恋愛では、そんなに簡単に《特権的な他者》の資格の転落が起きうるのだろうか?もし、起きない、という前提を取るとするならば、この物語自体が、《純粋性》の空間として、つまり読者に対して《この人は特権的な他者になりうる資格がある》という支えを必要としているのかもしれない。そして、その支えがなぜ必要なのかといえば、まさにこの成立そのものが《純粋性》の《共同体》に向けられたものだからだ、という言い方は可能なのだが、そこまでは果たして断言できるのかどうかはこのテキストを読み込むだけでは判断できないため、保留する

*7:しかし、この「共同体」も、《特権的な他者》が膨張する以上は、また無傷でありえないだろう。従って次のような帰結が発生する。「女友達からの/誘いも/全部/断って/アタシの時間は/トモで全てだった/アタシの時間は/トモで全てだった/寝る前も/起きていても/昼間も/一人でいる時間は/トモを想う/そして/トモが仕事を/終わってからは/一緒にいる/正直/アタシ的には/カヨを/思い出させない為に/していた/一緒にいたいのも/勿論/あるけど/アキ/とゆうアタシと/毎日一緒にいる事で/忘れられるんじゃ/ないかと/期待もした」

*8:例えば、次の文章を見てみよう。「カヨじゃない/突然/頭の中から/聞こえた/自分の声」。これはまさに《固有性》を暴露する《声》であろう。《カヨという存在》で《アキという存在》を抹消したとき、その存在を打ち消すかのように響く。《アキという存在》を暴露するためには、《カヨではない》という、特権的に占めていた《カヨの存在》を打ち消すだけで事足りる。

*9:しかし、あえてカマトトぶって答えるならば、『恋空』においても「水子地蔵」という主題が背後に出てくるが、それほどまでに《妊娠》という意味が、携帯小説の中心にあるというのは、実は少し面白いことなのかもしれない。いや、というよりこの事実に対して、余りにも男性は無頓着であるとは言える。

(2008/11/12 初稿・自ブログにて)

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