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「毎回すべてを忘れて寝てるのかな?」という落合さんのモヤモヤが分かる年になった


地元を出て8か月、日本を出て3か月が経った。ただ一つ分かるのは、それは「あのときのわたし」には一生戻れないということだ。どれだけ頑張ろうとお金を積もうと、あの「長崎県の公立高校に通う17歳女子」の視点はもう二度ともとに戻らない。アメリカに来たことでどんどん経験則で片隅の物事が語れなくなっていく感覚を得てはじめて、私は社会に対して責任を持たなけらばならない、私はもう大人なのだということを気づかされた。教育についてや地方格差について意見を求められようが、もうボストン在住の19歳女性の意見しか出てこない。

世の中はすべて等価交換である。一生そんな17歳の視点を失う代わりに、学問的な知見を日々得ている。これから必要なのはいかに謙虚になるか、「私には片隅の景色は見えていない」という自覚を持てるか、それだけなんだと思う。今まで「私に片隅が見えている」という勘違いをした大人を沢山見てきたからこそ、私は大声で「私には片隅が見えていない。だから片隅を教えてくださいね。」と主張していく。


落合さんの疑問

出演以来初めて、Youtubeで高校生の時に出演した落合さんの番組を見た。台本も番組の構成も全く知らなかったのに、ここまで話せた自分はやはり経験の中で溜まっていた鬱憤が多かったんだろうなと思う。「なんでこんなものがバズったのかが分からない。目新しい問題じゃない。これにいいねを押した人は毎回すべてを忘れて寝てるのかな?」当時はよくわからず首をかしげるしかなかった落合さんのモヤモヤが、今ではよくわかる。17歳の高校生があの記事を書いていたら、私も心を込めていいねを押すだろうと思う。あの記事に共感した、かつ、いいねを押した人には、二つのタイプがいたのではないか。

1.あの文章に「あのときの自分」を見た人。一生自分はあそこから抜け出せないのではないかという絶望にも似た不安、周りがどんどん社会の仕組みに嵌っていくのを見ていく中で感じる恐怖。そんなものに打ち勝ちながらここまでやってきた。だけど、やっぱり人は自分が幸せな状態で問題意識を抱き続けるのはとても難しい。だからこそ、一生忘れないぞと心に決めていたはずの薄れていった怒りや悲しみに悔しさを抱きながらいいねを押した人が多かったんだと思う。「毎回すべてを忘れて寝てるのかな?」その通り。毎回痛烈な悲しさを覚えても、朝起きたら全てを忘れて、みんなが理想とする「ふつう」がまるで普通であるかのような錯覚を覚えながら、その普通に自分を調整しながら、一日を生きていく。

2.あの文章に「今の自分」を見た人。一度社会の罠に嵌ってしまうと二度と手を伸ばしたかったところに手は届かない。個人が社会に与えられる影響なんて本当に限られているし、声をあげることなんてできない。自分のこと、社会が見てくれているか分からない。そんな寂しさを抱えている人もいいねを押してくださったと思う。落合さんの数々の言葉に少し違和があるとしたら、それはやっぱり「自分の意見は絶対に社会に反映されない」と自覚している人の絶望に共感していないニュアンスが感じられたからだと思う。自分の声を代表してくれているようなものは、その生きづらさが達成されるまで主張、拡散し続けなければならないのだかた。


「フィクションでもよく語られる話じゃないですか。じゃあなんで?」
落合さんはそう言ったけれど、この質問にも共感できない。日本の映画やドラマで語られる貧困は絶対貧困に分類されるような貧困、非行を取り上げることが多い。しかし、あそこで私が描いたものは、世の中で求められること、想定されていること、理想とされていることから少しずつズレていくという気持ちの悪さである。また、もし私があの話をフィクションで「すみれちゃんは...」というような話を書いていたとしても、ここまでの反響は得られなかっただろう。私は昔を生きていないからこの気持ち悪さは社会において普遍的なものなのかどうかは分からない、だけど今の若者は特に「こんな世の中フェイクじゃん」という寂しさを根源的に抱えている人が多い。同調圧力に従う力とコミュニケ―ション能力が同時に求められることにはじまり、沢山のダブルバインドの中で生きていて、どれに従っていけばいいのかが分からない。だからこそ、フェイクじゃない、真実が欲しい、本物が欲しい、実態を知ってほしいという根本的な欲求があの文章によって刺激された可能性がある。この物語はフィクションではなく、現実のものとして語られる必然性があった。

「なんで横で共有されていないんだろう」
これは番組の中でも少し言及した「甘えと捉えられてしまう」という要素のほか、過去を語ること、弱者性を語ることのダサさが影響していると思う。そんな、分断の話をするよりは美味しいランチの話、彼氏の話、犬の話、流行の服の話、ユーチューバーの話がしたいじゃない?自分の心を割って、自分の大切な価値観について話す。そんな対話の機会があまりにも少ないのだと思う。

結局のところ

結局は「苦しまなくていい世界」にやってきた人たちは、すべてを忘れて寝ることは避けられない。ずっと苦しい世界の視点を持っていることは不可能である。人は自分の目の前の世界を「ふつう」としながら生きていくことしかできないし、過去の普通は過去のものでしかない。じゃあどうすればいいんだろう?結局は、記事の中でも書いていたように「謙虚であり続ける」という姿勢を意地でも崩さないことだと思う。怒る前に、相手がなんでそんなことをしたのか考えること。相手の背景を想像してみること。自分には見えなくなった世界がある。自分には見えていない世界がある。そうやって、相手の世界を見ようと体を傾け続けること、ほんとうに、それでしかないんだと思う。

このように分断を考えるとき、最終的には人の心がけ、で終わってしまう自分に気持ち悪くなることがしょっちゅうだ。だけれども、最近友達に貰った「答えを出すことより、関わり続けることを。」という言葉に励まされて、また今日も頭を捻らせる。

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