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思春期の自己規定とSNS

どうやらみな、日々の一刻一刻にすらも、戦略を立てながら生きているらしい。そう気づいたのは、高1の夏頃だったと記憶している。初めて上京し、顔見知りがぐんと増えた平成最後の夏だ。

Aくんは言った。「俺、賛成する事柄でも、『ここで反対したら面白いかな』っていう場面では反対したりするよ。印象をつけたいからね」。そんな人狼ゲームみたいな日常を過ごしている人がいるのか!と驚嘆した。
Bちゃんは言った。「わたしのインスタ手芸の写真ばっかり載せてあるでしょ。それも手芸がもとから好きだったんじゃないの。相手に覚えてもらうようになるにはどうすればいいかなって考えて、『手芸の人』っていうキャッチコピーを自分に付ければいいんだって思ったわけ。」

考えることと発することが全く一緒の単細胞の私は混乱した。そして急に世界が恐ろしく見えてきた。何も考えずに生きてたら食われちゃうの…?

あれから1年以上が過ぎたそんなある日、急にTwitterが使えなくなった。最初はまぁいいか、どうせ受験で離れたいと思っていたしという気持ちだった。が、徐々に不安になってきた。「わたし」が消えてしまったように感じたからだ。その瞬間、わたしはTwitterで「わたし」を規定していたことに気づいた。

人々が一つの正解を目指さなくなり、大学入試でも「あなたの色」「個性」が問われるようになった。ただでさえ不安定なティーンエイジャーはさらに苦しんでしまう。しかし普段の生活の中で個性を出したり自分の個性を確認するのは難しい。

そこで近年浮上したのがSNS,とりわけInstagramだ。インスタではその個人ページに入った瞬間ひと目でその「世界観」がわかる。白黒。大人っぽ。顔面は上げない主義。彼らの纏いたい雰囲気が視覚化されており、個性を形作ることができる。友達がフォロワーとなって視覚化され、人気度もいいねでわかる。自己を規定しなければいけない現代の若者にとって、SNSは精神の安定をもたらしたのだ。

私にとってはそれがTwitterだった。「肩書きやフォロワーの多さが自己肯定感を上げてくれたってでしょ?」それも一理あるが、それよりも、Twitterで自分の頭の片隅にあった言葉の塵を織ってそれを文章化する、そのプロセスこそがまさに自分を作り上げていた。タイムラインに社会情勢についての意見が流れていく。それに、周りから期待される「じぶん」からの意見を言語化する。言葉にすることで、「じぶん」をつくってゆく。幼い頃からじぶん分析ノートというのを年に10数冊ほど書いていたため、言語化すること、文章化することでしか「じぶん」を規定できない体になっていたのだ。

Twitterがログイン出来なくなったとき、これも神のお告げなのだからこれを期にやめようと思った。しかし、やっぱり私は言語化から離れることはできない。

だけどやっぱりTwitterは危険もはらむ。根拠のない自己肯定感。常に誰かから見張られている感覚。応援されればされるほど、本当の自分はこんなんじゃないのに、と思う本当の自分との乖離。それを防ぐためにフォロワー数を増やさないように調節しながらTwitterで自己を規定していきたい。

どうやらみな、日々の一刻一刻にすらも、戦略を立てながら生きているらしい。実は私も、そのうちのひとり。言葉にして自分をつくって、「これが私よ」って自分自身に納得させてるの。

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