テーマ「芸術」意見文

問:万物は、「美しい」といえるのではないだろうか。

 私は言えると思う。ただし、一人からされる評価によって全てのものが「美しい」とされる訳ではない。一つの対象物に対して多数の人から見たとき、一人一人の評価は違えど、それを「美しい」と見なす人は必ず一人はいるはず、ということだ。つまり「この世の全てのものは必ず誰かによって『美しい』と評価されうる」という説である。なぜなら、「美しい」という言葉はかなり抽象的な言葉であると同時に、人は千差万別だからだ。
 まず後者から説明しよう。人は皆その視点が違うが故に、同じものに対する評価は皆違うだろう。例えば林檎を目にした時に「丸い」「赤い」「いい香り」「値が高そう」「昨日友達が林檎のように顔緒を赤くしていた」などと、数え上げれば果てしなく膨大な数になる評価や感想を持つ。しかしこれらは全て、「具体的」な評価に当たる。ここで前者「美しい」という言葉は抽象的」について説明が出来る。「丸い」「赤い」…といった「具体的」な評価は全て「抽象的」な評価である「美しい」という言葉に帰属させることが可能なのである。丸いからこそ美しい、赤いからこそ美しい、香りがいいからこそ美しい、人の頬の色に似ているからこそ美しい…などと、強引なものもあるが不可能ではない。
 つまり、七十億もの千差万別な人類がいるこの地球上では誰かしらがそのような思考の仕方をする、即ち全てのものは必ず「美しい」という評価に値し得るといっても不自然ではない、というのが私の考えである。「美しい」という言葉が抽象的なもので、かつ人類が皆違った思考を持つという条件のもとでしか成り立たない説である。しかし全人類が万物を見たことがあるわけではないので、「全てのものが美しいと評価された経験がある」という経験の有無を言いたいわけでは無いことは注意しておく。
 一方で、もし「具体的な評価」が「ネガティブ」だったら、それを抽象化しても「美しい」という評価にはならないのではないか、という考えもあるだろう。具体的な評価がネガティブとは、例えば「汚い」「廃れている」「寂しい」といったものを指す。先の例で述べた「丸い」「赤い」などとは明らかにタイプが異なり、とても「美しい」という評価にはたどり着かなそうだ。
 しかし、これらも「美しい」という評価をする人がいるほど、「美しい」という言葉はかなり抽象的なものなのだ。具体的な評価がネガティブなものに対しても、ある一定数のファンが存在する例は存在する。例えば廃墟である。廃墟とはかつて人が使用していて、今は使用されておらず解体も放置されている建設物などを指す。これらは普通の人からすればとても「美しい」という評価にはならないだろうが、しかしながら一定数のファンが存在するのも事実である。私もその一人である。ましてや長崎県の軍艦島は、いわゆる「廃墟ファン」にとどまらず一般の観光客も多く集めるスポットだ。汚いからこそ美しい、廃れているからこそ美しい、寂しいからこそ美しい、という評価の繋げ方を出来る例が、廃墟なのである。つまり「具体的な評価がネガティブ」であろうともそれが「美しい」という評価に繋がることは不可能ではなく、可能なのだ。したがって全てのものは、「美しい」と言える、と私は考える。

※高校三年の頃に書いたものを発掘 授業の課題かなにか

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