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「放っとく」方が良い。しかし「最初から放っとく」のでは無い。他国・他文化からの働きかけを介したのちに、「放っとく」のが適切だ、ということである。
 何故か。それは「他国は自国をよく知らない」からだ。他国から出る意見はあくまでもその国の視点によるものであり、「自国」即ち「問題が発生している国」、今回で言えばエジプトの文化の背景・国民性などには必ずしも合致するものではない。つまり、他国・他文化からの意見だけでは本当の解決に至りにくいのである。それを踏まえてエジプトは、「他国・他文化の意見に触れたうえで自国の事情と照らし合わせ、自己批判を介し、『自分たちで』解決に向かう姿勢を作る」ことが、適切なのではないだろうか。したがって他国のすべき事は何かというと、冒頭に述べたように「働きかけたのち、『放っとく』」ことである。
 その点を踏まえたうえで、「どのように働きかければよいか」について意見を述べる。まず、「女性の結婚は幸せである」という価値観がエジプト文化には存在すると本文中にある。しかし、強制的な結婚のせいで夢を奪われる女性が居るのも事実なのだ。私は夢を奪われることが幸せとは全く思わない。寧ろ不幸せなはずだ。しかし、児童婚そのものに当事者が疑問を抱かないケースもあるという意見はあるだろう。だが、これは教育が不足した結果だと私は考える。あくまで仮説だが、「疑問に思わない」のではなく「自分たちの中では当たり前すぎてそもそも議題に上がらない」のではないか?もしくはそのような問題を突きつけられても若さが故の未熟な判断しか出来なかったのではないだろうか?これについて一度当事者たちに疑問を持たせるきっかけとしても、他国から、「他国・他文化の当たり前」を提示して自分たちの当たり前との「ズレ」を認識させる必要があるのである。
 次に、「児童婚は女性を性的暴力から守る」というエジプトにおいて根強い考え方について。結論から述べると、守れていない。極端な言い方をすると、「児童婚」は性的暴力が合法化しているに過ぎないのである。「性的暴力を防ぐ児童婚」によって女性は妊産婦死亡、教育中断、家庭内暴力や虐待というリスクを背負う必要が果たしてあるのだろうか。何故男性側に責任がなくなってしまうのだろうか。性的暴力に着目すれば、「男性の問題でもある性的暴力を、女性に多量の重荷を負わせて『性的暴力はなくなった!』と主張するのが児童婚」という、本質的な解決に至らず表向きだけ良い制度に過ぎない。しかもこれは明白な女性差別と言える。エジプト文化に対して「あなたたちの従う制度は女性差別で、もう世界では女性差別は排除する方向に向かっているよ」と、他文化から警鐘を鳴らすべきである。
 以上の通り、ある一文化の問題に対しても他国・他文化からの働きかけを介したのち、放っとくのが適切だと私は考える。

※高校三年の頃に書いたものを発掘 授業の課題かなにか
「児童婚は女性を性的暴力から守る」というエジプトにおいて根強い考え方の紹介し批判する文書を提示され、このような文化に対して他国から是正の働きかけをすべきかどうか、意見を述べよ 的な課題だった気がする

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