存在しない記憶 第二章

第二章 春


三回落ち続けた大学にやっと受かった。嬉しい、という気持ちにはなれなかった。ストレスと闘って必死に勉強し続けた一、二浪目の頃と、もう殆ど諦めて遊んでいた三浪目の一年を比べてなぜあの時は落ちて今回は受かったのだろう、と不思議に思った。

誰もいない昼間、リビングで補欠合格を報せた受話器を元に戻せないままぼんやりと立っている。台所の蛇口からポツ、ポツ、と一定のリズムで金属に滴る水滴の音が脳味噌を刺激した。その音を聞き続けていたら不意に涙が溢れてきたが、その涙はほんとうに自分のものだろうか。

大学の入学式は、スーツで行くことになっているそうだ。二年早く大学に入学した弟が言っていた。ほかの人たちはそういう「普通」をどこで仕入れているのだろうか。「入学式ですね」「おめでとうございます」と綾乃からLINEが来ていて、一分ほど返信に迷ってから「ネクタイ、くるしいわ。」とだけ送った。

 午前九時から始まった入学式が終わると、スーツを着た人たちが講堂前に集まっていた。学科ごとに入学式の時間が分かれていたから、この人たちは皆同学科の新入生だ。入学式は集合写真を撮るものだと弟から聞いていたので、ここで頑張らなきゃ、と思い近くにいた金髪の男に声をかけた。

「多分この後みんなで集合写真とる感じですよね?」
「どうなんやろ。わからん。」

男は好意的とも敵対的ともとれないニュートラルな声色で応えた。かなりきつい関西弁で話すので、こちらも無理して標準語で話す必要は無かった。

「はぁ、そうですよね。僕村田っていいます。よろしくお願いします。出身関西ですよね?どちらなんですか?」
「はぁ、徳田です。奈良。」
「どのあたりですか?
「大和八木。」

咄嗟にどこやねん、と言った気がしたが、実際には声になっていなかったらしく、徳田は無表情でこちらの返答を待っている様子だった。

「僕兵庫なんすよ。この大学関西勢少ないらしいんでこれからよろしくお願いします。」
「あ、少ないんや。」

風貌が幼いし、現役で受かったのだろう。縋る思いで合格者の一年間の成績推移や出身高校データを調べたりしたことがないから、合格者の多くが御三家と呼ばれる都内の私立高校で占められていることを知らないのだ。知らなくてもいいことを知らないまま生きれてええなぁ、とは言えるはずなかった。

「もうみんなと喋った?あっこに溜まってるグループの、あのめっちゃかっこいいのが加藤君で、あっちのグループの茶髪の可愛い人は武井さんっていうらしい。」

 徳田はもう他の新入生たちと打ち解けているらしい。何故か急にタメ口を利かれたことに多少イラっとしたが、そういうのが親しみやすさというものなんだろうか。

「もうグループとかに何となく分かれてるんすね。」
「みんな入学前にツイッターで話したりはしてたしな。昨日飯食い行った人達もいるらしいし。ツイッターのアカウントある?」
「いや、大学用のやつはまだ作ってないですね……」

他の人たちは合格したその日からツイッターやインスタでフォローし合い、お互いにある程度知り合っているらしかった。今日が「スタート」の日だと思っていたから、自分だけスタートラインに立てていなかったことを知って胸のあたりがざらついた。これも、世間一般では「普通」のことなのだろうか。それは皆誰に教わったのだろうか。

 結局その日はほかの人たちとあまりうまく話せずに、集合写真の端に写った後、昨日引っ越した大学の寮へ帰った。寮へ帰る道で徳田と再会し、彼もまた寮生であることが判明した。「これから寮で新入生の飲み会がある」と徳田が言うので、自分もそれについていくことにした。

寮の一室には自分と徳田のほかに二人の男がおり、それぞれ名前を永井と河村といった。永井の方はかなりの美青年で、背は少し低かったが線が細く、女にモテそうだと思ったがそれ以外の印象はなかった。河村の方は、背は永井と同じくらいだが筋肉が発達していて、妙に威圧感があった。

 飲み会では、入学式で見かけた可愛い女の子のインスタを探そうという話になり、携帯の画面を見せ合いながら、この子はAV女優の誰に似てるかだとか、この子は胸がでかかっただとか、そういうしょうもないことで大盛り上がりした。男同士というのはたとえ初対面であっても女、金、胸派か尻派か、AV女優、チェンソーマンの話をしていさえすれば仲良くなれる。乳の大きさは遺伝だが尻は筋トレでエロくなるのだから俺はその努力を評価したい、と言って尻派を自称していたのに、胸の大きな学生のインスタだけをフォローしていく河村が一番アホだった。

話の流れで彼女はいるかと徳田に聞かれたので、付き合って八ヶ月ほどになる綾乃とは予備校で知り合い、授業が終わると近くのラブホテルでセックスをしてから帰るのが三浪目のルーティンだったという話をした。その前に一目惚れした女の子には話しかけることが出来ずに予備校帰りに自宅までストーキングしていたことと、綾乃以外の女子には気味悪がられて話して貰えなかったことは言わなかった。
空が赤紫色になるころまで飲み会は続き、最後に寮の大風呂に皆で入ったあと自室に帰り、奮発したマットレスの低反発の中で心地よく就寝した。

新生活の刺激のせいで、入学式から二週間はあっという間に過ぎた。上京前、最後に綾乃に会った日からは一か月ほど経っていた。

綾乃とは三浪目に行った予備校で出会い、自分から告白した。素朴な顔立ちで背は低く、いつも何を考えているのか分からない子だった。友達は一人もいないと言っていた。年は自分の二つ下で、一浪中だった。予備校の授業を受けた後の逢瀬を、彼女はいつもその様子を誰かに見られていないか心配していた。予備校にいた女の子の中では唯一自分と口をきいてくれた子であり、人生で初めてできた恋人だったので付き合ってから暫くは自分の生活すべての時間で彼女のことを想っていた。その頃は人生のすべてが光り輝いて見え、自分の見つけたすべての美しいものについて彼女に伝えたい、と思い返して恥ずかしくなるようなことを考えていた。

しかし彼女は地元島根の大学に進学し、最近は「会いたいね」「そうですね」という類のLINEを延々と送り合うだけになってしまっていた。お互い初めての一人暮らしの忙しさにそれ以外のことを話し合う余裕もなかった。最近はハメ撮りを見て自慰をするとき以外は綾乃のことを考えなくなった。

入学式から数日後、歯学科のグループラインに一件の長文メッセージが入っていた。

「こんにちは!この度今年度一年生のシケタイ委員長になりました!武井華です!皆さん、この大学には試験対策委員会、というものが存在していることは知っていますか?これは科目ごとに分かれた委員が過去問の模範解答やまとめプリント(シケプリと呼ばれています)を作成し、同級生の単位取得をサポートする組織です。原則として学年全ての人がどこかのパートに所属してもらうことになっているので、今から送るgoogleフォームに名前と希望の科目を第三希望まで記入してください!」

とあった。なぜ自分がそんな面倒くさいことをしなければならないのだろう。なぜこの女はそんな面倒な義務をさも当たり前のように押し付けてくるのだろう。言いたいことはいくつかあったが、誰に何を言いたいのか自分でも整理できなかったしメッセージ主である武井華のエロい脚にはいつか射精したいと思っていたのでそのわずかな可能性をキープするためにも変に抗議することも得策ではないと思い、仕方なくアンケートには「村田ヒロ 第一希望 物理学」とだけ書いた。

 物理学のシケタイは大原さんという女の子と、メガネの男女一人ずつの四人グループに決まり、大原さんが先輩から貰った過去問の模範解答を作りたいというので明日の授業終わりに大学近くのカフェで集まることになった。頑張って他人を進級させることに何の意味があるのか理解が出来ない。怠惰な奴らは黙って単位を落として留年しろ。

その日は死ぬほど面倒だったが大原さんに会うので一応ブラックレーベルの上下を着て大学に行った。一応講義の間に過去問全部に目を通し、一応全部解いておいた。
大学から四人でカフェに歩いて向かい、大きめのテーブル席が空いているというのでそこに座ることにした。メガネ達がアイスコーヒーを頼んでいたので自分もそれにしたが大原さんはアイスティーを頼んでいた。

飲み物をテーブルに置き、「じゃあ早速、初めよっか。」と大原さんがマスクを外した瞬間、耳の奥がぎゅわ、と鳴り心臓がぐわっと膨張した。もともと可愛いと思っていたが、マスクをしていない大原さんはまさに自分の理想の顔面をしていた。大きく開いた二重の目に小さい鼻、厚みのある赤い唇でいながらどこか素朴な雰囲気を漂わせる美人だ。

恋に落ちる音は「ぎゅわ」だと知っている人間は世の中に何人いるだろうか。

気持ち悪いと思われてはいけないので平静を装いながら「そうしよか。」とノートとボールペンを鞄から引っ張り出した。

もう過去問は一通り解いておいたのだが、なぜか急にそのことが恥ずかしくなり皆には言えなかった。過去問を分担して解こう、という話になり、メガネ女が

「じゃあ私と大原さんが去年のやつを解くから、一昨年の分は村田君で、三年前のは加藤君お願いできる?」

と言うのでなんでお前が仕切ってんねん、そんで、なんでお前と大原さんが一緒になんねん、ていうかお前自分の分量を少なくするのはなんやねん。普通そういう時は自分ちゃうやろ、ブス。

「ええよ。」とだけ言った。

もう一方のメガネが佐々木という名であることを初めて知ったが興味が無かったのでその後も何度か名前を忘れた。佐々木が遅すぎるペースで問題を解き進めるのを横目でみながら自分も解いているフリをし、大原さんとメガネ女の談笑を横耳で聞いていた。

聞けば大原さんは東京出身で、私立の名門女子高出身らしい。高校時代は生徒会やってたんだ、と大原さんが言う。完璧や。東京の可憐なお嬢様のイメージと同時に、田舎の、目が細くて小さい、友達の居ない彼女が浮かんだ。脳味噌がドーパミンで麻痺しているのはわかっていたが、それでも。

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