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愛することが好きだった
なにもかもを愛していたかった。
慈しむこと、親しむこと、慕うこと、かわいがること、大事にすること、微笑むこと、寄り添うこと、…
誰かが幸せになってくれたら自分も幸せだった。
好きの改築、ようやく始まります。
(改築に至った経緯については、よろしければ、こちらの記事をご覧ください。)
ではさっそく…。
まずは、
なぜ愛することが好きだったのか。
結論から言うと、自分の綺麗な部分だけを見ていられたからです。
…もっと言うと、醜い自分からの逃避でした。
いつだったか、
「あなたは喜怒哀楽の怒が抜けている」
と友人に指摘されたことがあります。
その通りで、わたしは怒ることが怖かったのです。怒りの感情を表に出して誰が幸せになるのだろうかと、…と以前の自分は言いそうな気がします。笑
今思えば、
万人を愛する自分に陶酔していました。
また『誰に対しても親切で優しく温かく』、そんな自分でいた方が人から認められやすくメリットがある、という打算もあり、それについては当時の自分も薄々気付きつつ見て見ぬふりを続けていました。
氷山の一角という言葉がありますが、
まさに、愛で溢れた綺麗な自分は、
その自分という氷山の一角でした。
『愛していれば万事うまくいく』
そんな考えが言語化されぬままずっとわたしに蔓延っていたのです。
では、
それだけ綺麗とは言えない自分を言語化した今、
愛することは本当に好きなのか
自分の場合、原始的な“愛すること”とは甘えることでした。
何のエネルギーもなくなった時、優しくしてくれる人や助けてくれる人たちが、有難いことに少なからずいてくれました。
愛するという概念は雲隠れしていて自覚していなかったものの、自分はその人たちを精いっぱい愛していたと思います、甘えるという方法で。
なにも出来なくなった自分は、言葉にならない感謝とともに同じく言葉にならない愛を込めて甘えていました。あるいは、愛しているからこそ甘えることができたのだと思います。
原始的な自分の愛の表出は、そのように甘えとして出てきたのです。
自分にとって、愛することは、誰かを、そして客観視する自分を幸せにする手段であることに変わりはありません。
ただ、気がついたら愛していました。
“愛する”とは自分にめり込んだところからベクトルが始まっている、力まなくても出来る簡単なことでした。
ですので、
エネルギーがたまってきた今も、愛することは好きなのかと訊かれたら、こう答えます。
好き嫌いで量る以前にすでに愛していた。
そんな自然体で作らない自分が好き、
そんなどこか衒っている自分も好き。
好きの改築、第一弾は“愛すること”でした。
これにて改築完了です。
牛カルビ丼のような愛が愛だけじゃない。
スズキのお造りのような愛が尊いわけでもない。
ただ風が優しく頬を撫ぜるような、そんな静かで曖昧で穏やかな愛があることを知り、
自分という氷山をまるごと受け入れられそうなわたしと出会えた24回目の秋、楽しみます。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
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