自己肯定感を上げる話

 年明けからこんなことを言うのもなんだけど、僕はかなりダメダメな方だ。なんというか、人間生活全般において。

 アルバイトは続かないし、人とはうまく喋れない。部屋が散らかっている。機転が利かない。人参とかもできるならあんまり食べたくない。自分のだめなところなんて挙げはじめたらキリがなくて、今だって年末から始めたうどん屋のバイトを辞める口実を考えている。根気がなさすぎる。だって向いてないんだもん、接客。

 地元の大型複合施設、名の知れないうどん屋チェーンのホールスタッフ。時給870円。無駄に厳しいパートのおばちゃんに怒られまくる年の瀬を過ごし、自分の仕事のできなさをこれでもかと思い知らされた。社員でもないのに何なんだ、と怒りたくなるときもあるけれど、自分が全くのポンコツであることも悲しい事実。人には向き不向きってもんがあるけれど、自分、こんなに社会に向いてないなんてことある?おかしい、成人する頃にはもう少し「デキる」大人になっている予定だったのに。

 怒られまくったからってわけじゃないけど、自分のことを好きでいること、い続けることは、思っていたより難しい。そういえば自分に自信があったことなんて一度もないし、何事にも上には上がいる。今もこうして文章を書いているけれど、正直見てほしい気持ちと見てほしくない気持ちは半々くらいで存在している。ナンバーワンでもオンリーワンでもない自分を手放しに愛せるほど、まだ僕は年を取りきれていない。

 他国に比べて日本の若者は自分の事があんまり好きじゃないみたいだ。「若者 自己肯定」とかで調べると、そういうデータがいっぱい出てくる。国柄や歴史観とかもあるだろうし、じゃあ「自分大好きだぜ!」みたいなのが日本に全くいないかというとそれも違う(クラスに一人はいたな、めっちゃ自分のこと好きな子。)けど、そのデータ群が指し示す事実になんとなく納得できてしまう自分は、やっぱりまだまだ「日本の若者」なんだろう。しわくちゃのおじいちゃんとかになったらもう少し色々なことが大丈夫になっているのだろうか。

 あっけらかんと自分のことを好きでいる人生はたのしいと思う。し、そういう人は実際輝いてるように見える。同じ人生、どうせなら楽しい方がいいし、やっぱり自分を好きでいることは、他の誰でもない自分の役目なんじゃないだろうか。誰かに頼むのもいいけれど、皆も皆で忙しそう。だって、皆も同じ若者だから。どこか認められたい気持ちを抱えているのはきっと皆も同じだから。それに所詮、人は自分のことで精一杯な生き物だ。
 だったら、もっと自分で自分を愛してやるしかないじゃないか。

 自己肯定感を上げたい。せっかくのお正月だし、それは景気よくおめでたい感じに。そう考えて、「自己肯定感」の5文字を配した凧を揚げることにした。凧を上げる。自己肯定感を上げる。結局のところダジャレでしかないのだけれど、いまの自分たちにできることなんてこれくらいしかないと思えた。どっちかと言うとダメなことの方が多い人生だけど、ひとまず何の根拠もなしに自分のことを愛してみる、そのための土台を作ってみる、本気で凧を揚げてみる。くだらないけど、かつてないほどの自己肯定。長い人生、いつ終わりが来るかわからない。そんな無根拠なポジティブから始まる一年があってもいいじゃないか。とびきり自分を愛していこう、大事にしながら生きていこう。何にもないけど、それでいい。そう思えることを今年の目標にしてみよう。

 今回この自己肯定感上げを行うにあたり、一人では寂しいと地元の友人を誘った。少し話は逸れるのだけど、僕はくだらないことをするときよくこの友人に声をかける。ノリが合う友人であるということと、あとは何より暇そうだから。年末も、企画の説明と共にオファーをかけると秒という秒でokの返事がきた。さすが。一緒に凧、揚げようじゃないか。
 ホームセンターに適当な長さの竹ひごをいくつか買いにいって、骨組みを作る。書道で使う半紙をつなげて貼れば、それとなく飛びそうな凧ができた。凧揚げが許可されている広い場所で飛ばしてみよう。

 元日の朝、近くの公園で友人と待ち合わせる。「自己肯定感」5文字の筆入れ式を行い凧が完成。

小学生の書き初めか?

何はともあれ、役者は揃った。さあ、いざ舞い上がれ、おれたちの自己肯定感。



「カシャン」



 糸を手繰り走りだす友人に合わせて順調に舞い上がった凧。しかし束の間、突風に煽られ揚力を失った凧は、地面を叩く音と共に大破した。突然すぎる展開に理解が追い付かない。おい、嘘だろ、自己肯定感。目を覚ましてくれよ、自己肯定感。こんなのあんまりじゃないか。

 おれたちの自己肯定感はあっけなく墜落した。
 字面だけ見ると悲惨だが、読んで字のごとく、自己肯定感は墜落したのだ。連写した写真をGIFにしたりしてみても変わらない。ただそこにはどこか笑いさえ誘う潔い墜落の事実のみが横たわっていた。幸いにも和紙は破れておらず、骨組みを繋げればまだなんとか空気を捉えることはできそうな状態。一度や二度で全てがうまくいく世の中でないことは20年の人生で学習済みだ。おれはどうやってでも己のことを愛してみせる、何度だって自己を肯定してみせる。さあ舞え、自己肯定感。この平成最後の大空に。

 横向き。それが僕たちの自己肯定感が出した答えだった。飛翔とは裏腹に低空飛行を続ける凧。地を這うように、しかも回転しながら飛ぶそれを凧と呼ぶにはあまりにも難しく、なんというか、もはや水平に機能するパラシュート。なんか忍たま乱太郎とかでこういう修行があった気がする。空気抵抗でお腹に紙を貼りつけながら落とさないように走るあれ。「自己肯定感を上げるため」から、気づけば「これ以上自己肯定感を落とさないため」に走り続ける、そんな状況が生まれていた。

 自分のことを好きでいること、好きでい続けることは難しい。何にもない自分を「それでいい」と肯定できるようになるのは至難の技で、それはそれは凧を飛ばすのと同じくらい。結局この日、これ以上自己肯定感を上げることはできなくて、まだ僕は自分のことを好きになれずじまいのままだ。それは何もないところからドカンと感情が打ち上がるようなものではなく、日々こつこつと続ける修行みたいなもので「ここまで堕ちなきゃ大丈夫」のラインを下回らないよう走り続けることが大事なのかもしれない。そうするうちに自己を肯定するきもちは嵩を増していってくれたりするのだろう。きっと。
 手放しに自分のことを好きになるのにはやっぱりまだ少し時間がかかりそうだ。でも、この走りを、足掻きを止めない限り、きっと僕は僕のことを少しずつ認めていけるはず。地面に叩きつけられながら、横向きになりながら、とりあえず今やれることを全力でやっていくしかないのだ。頭上には子供たちが悠々と上げる凧が気持ち良さそうにはためいていた。







このあと行った初詣で引いたおみくじ。自己肯定感も、ゆるゆる探してるくらいがちょうどいいのかもしれない。

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