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パラパラなチャーハンをつくる

パラパラのチャーハンを作りたい。

炊き立てアツアツのお米を使うのではなく、冷やご飯を水洗いしてからざるで水を切って、そこから炒めるとどうやらパラパラになるらしい。いつもその加減がよくわからなくて、これが正解のチャーハンか?と思いながら食べることになり、鍋肌に醤油を回し入れる行程で焦げついたフライパンをがしがしと洗う羽目になる。

パラパラのチャーハンは難しいが、それでも私たちはパラパラのチャーハンを時に自分の手で作ることができる。「作るって本当に楽しい!CANMAKE チャーハン」なのである。

パラパラなチャーハンと同じくらい、マジでいい感じの社会を作りたい。そして、パラパラのチャーハンを作るのと同じように、自分たちの暮らす社会はわりと能動的に自分の手で作ることができる。現在も侵攻・虐殺が続くパレスチナへの連帯を示すデモに初めて参加してみて、そのことに気がつきはじめた。

そもそも私たちには道端でデカイ声で叫ぶ権利がある。これは、デモに参加してみてはじめて気づいたことだった。もちろんデカイ声とは奇声じゃない、全うな主張のことである。事前に正式な手続きを踏めば綿密な交通整理をしてもらえて、警備員だって配置してもらえる。集合場所に向かう最中、市バスが迂回する様子を見て、よりそのことを生活に身近な出来事として実感した。市街地のまんなか、安全が保たれたうえの一等地で、「給料あげろ!」とか「誰でも結婚できるようにしろ!」とかそういうことを、志をともにする人たちと一緒に社会にアピールすることができる。現行当たり前に享受できてる制度のいくつかはそうした運動によって成り立っていて、例えばイギリスでは中学生くらいからわりとカジュアルにデモに参加する流れもある。若い頃から社会参加に能動的な向きがある。パラパラのチャーハンを作りたいのと同じように、ほしい社会を自分の手や声で作ろうとする意識がある。それってめっちゃヘルシーだし、いちいちそんなことをヘルシーだと思うことすらバカげて思えてくる。

デカイ声で社会がワンチャン是正されるシステムがある国はそもそもシンプルに豊かで、私たちひとりひとりにその権利があるのもめっちゃ豊かじゃんって思う。「そもそも給料低すぎるだろ!」とか、今ぼくらがわざわざそういうことを叫ばなくてもなんかいい感じに暮らせてるのは (もはやそうでもなくなってきているが)、かつて誰かが声をあげてきた歴史がある。いつもいつでも大きくて強い声が親しみやすいかは置いておいて、その営みは私たち「豊かな」国の特権といえる。パレスチナ国民が不当に虐殺されてる現状に対して、デモやボイコットで外交的な圧力を加えることができるとされていることを踏まえ、その特権を「自覚しながら」行使することで、在るべき世界の姿を手繰り寄せることができるなら、動かせる物事があるなら、行使しておいて損はないよなと思う。
そう思って、午後休をとってデモに参加してみた。選挙に行くノリで、「ちょっとパレスチナ連帯のデモにいってきます~」となるべくカジュアルに。内心はドキドキしていた。だって、会社ではそんなことを表立って言う人はこれまでいなかったから。
結果、学びも違和感も、いろんなことをたくさん感じた。拡声機越しの声は列の内側にいても怖く感じたし、怪奇や嘲笑の眼差しもわかってはいたけどショックだった。けど、いってよかったと思うし、また時間を作って行こうと思う。なぜなら、私の社内チャットをきっかけに、同じように初めてながらデモに参加してみた同僚と現地で出会うことができたからだ。

めっちゃドキドキして疲れたからでっかいパフェを食べた



遡れば2000年の歴史をもつパレスチナ問題について、最近勉強をはじめた自分が一方的に正義をジャッジすることは最早難しい。けど今、今に限っては、海の向こうで起こっている出来事は明らかに間違っていて、なんの罪もないパレスチナの国民が30000人も虐殺されてる事態ははっきり言って緊急事態である。しかも、日本は間接的にその加害に加担している。私たちの税金が、何気なく買うコーヒーが、ミサイルになったり爆弾を積むドローンに生まれ変わる。そんなことのためにぼくらは働いているわけじゃない。個人個人の行動や意識がけで軌道修正できるものがあるなら、かけられる外圧があるなら、今からでも、いつからだって働きかけたいと思う。

最近は頑張ってはいるけれど正直仕事どころではないし、今年はとてもじゃないけど花見をする気分にはなれなかった。ゲームみたいに爆破されて飛び散る死体を、安全が確保されていたはずの陸路を通りながら狙撃されて命を落とした支援団体の車に空いた大きな穴を、海に落とされた物資を掴もうとして溺死する人々の映像が、脳裏にいつでも思い浮かんでは手が震えてしまうから。

現地の様子を投稿しているアカウント:@ey.on.palestine 
※ショッキングな内容を含みます

イスラエルに武器を提供する外資ブランドを個人でボイコットすること、寄付をすること、情報を広めること、この数ヵ月でいろんな怒り方の選択肢を知った。日本の、特に京都のデモはまだまだ小さいと思うけど、それなりにドキドキもした。こうして大きい声は出せなくても怒ってる人だっているだろうな、とも、思った。拡声器越しの声、呟くような声、ため息、いろんな声量の怒りを包摂することで、その溝を徐々に埋められたらいいとも思った。だれかとだれかの、なにかとなにかの「あいだ」を繋ぐのが、自分たちの学んできた「デザイン」の役割だと思うから。

怒ることで、叫ぶことで、息を吐くことで、動かせる物事があるならなるべく怒っていきたい。大きく怒るのが疲れたら小さく、持続的に、代わりばんこで怒っていけるといい。それでこそ連帯だし、日々を実直に生きることだって「静かな抵抗」と言える。とにかく最近は怒っているんだと恩師にこぼしてみたら、よすがになり得る記事も教えてもらった。

日々を楽しく生きることも“静かなる抵抗”になりうる
はらだ有彩[テキストレーター]


惨状を見て見ぬふりしてこれまで通りの日常を過ごすのはしばらく自分にはできなさそうで、誰かのために怒れる健やかな魂でいたいと思う。

パレスチナへの寄付先
https://palestinejpn.com/donations/?fbclid=PAAaacMW6Ea3ap96vRnQXBMehtHc0GS6V0bs-3UW43dP5INZ6NCX5847yHFQU


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