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たとえ、うまく喋れなくても ──東京都現代美術館「翻訳できないわたしの言葉」

私から出てくる言葉は、どれも非常にゆっくりである。

会話のラリーにおいて何より早さこそが正義とされる関西に生を受けながら、私は些か、のびやかに育った。
何かに応答するたびに、いま考えていることの全てを言い表すことができているかという緊張が全身を巡っては、どもる。いつだって、その「こぼれ落ちるかもしれない」言葉の断片に執着してしまう。

生まれや育ちの前提を抜きにして私は、私の持つ言葉をなかなかどうしてか、うまく信用できずにいる。

東京都現代美術館「翻訳できないわたしの言葉」

東京都現代美術館にて、7/7(日)まで開催の展覧会「翻訳できないわたしの言葉」に訪れた。

異国の地フランスで活動する日本人の映像作家や、アイヌにルーツを持つ人、日本手話を第2言語とする中途失聴の日本語話者、ALS当事者などめいめい5名の出展者が、自身のおかれた立場から他者とのコミュニケーションを諦めないために試みるさまざまな翻訳の仕方が、それぞれの手法で表象される。

ある作家は入植や民地統合における言語の修正の歴史について、あるクッキーを焼き上げることでアイロニカルに応答してみせる。中途失聴の聾者として日本語の発語と手話を切り替えて生活する作家は、その言語のあわいを旅する足元のおぼつかなさや決意について、淡々とした三部構成の映像作品で示す。

そのなかで、ひときわ心を打たれた作品があった。全身の筋肉が萎縮していく病、ALSを発症した作家・新井英夫さんの「からだの声に耳をすます」である。

「このからだ」が持つさやかな声

自身のバックグラウンドを演劇やダンスに持つ新井さん。これまで高齢者や身障者など、身体的に事情を抱える方々を対象に、体を動かすことの喜びを伝える数々のワークショップを手掛けてきた。ALS発症以前 / 以降に手掛けた事例が、親しみのあるオブジェクトや制作物とともに展示される。

「からだの声に耳をすます」というタイトルの通り、新井さんが眼差すのは、指示 / 意図された動きではなく、その人が持つ身体的な事情や癖から生まれる本能的な動き。震えや揺れ、自分で制御し得ない動きこそを表現のエレメントとして愛でられるような枠組みを、さまざまな手法で生み出してきた。

展示作品のひとつ、鈴のぎっしり詰まった箱は、そっと持ち上げるたび一粒ずつのわずかに揺れる音が葉のざわめきのようにさやかに重なり合う。手のひらが脈打つたび、ふと姿勢を正すたび、その微細な体の揺れに応答してさりさりと小さな音が生まれるとき、鑑賞者は「このからだ」が発する言葉に耳をすませることができる。

「影のダンス」では、新井さんの影遊びを映すプロジェクターの光に物理的に手をかざすことで、文字通り新井さんとの影のセッションを楽しむことができる。今ここにはいない誰かの影と応答し合いながら手を重ねることの不思議な高揚に、思わず夢中になって遊んでしまう。

不自由の中の自由

ALSは、四肢の動きの制限にはじまり、やがて発語や呼吸のための筋肉すらも衰えてしまう病と言われている。展覧会の前後数ヵ月でさえも、できること・できないことが刻々と変化する生活の中で、新井さんは自身のからだの「動き」を懸命に記録し続ける。

新井さんは、たとえ身体的な不自由があっても、「このからだ」が持つつぶさな声に耳をすませることさえできれば、心はその限りではないという。なぜなら、たぷたぷとした水袋とともに寝っ転がってはゆらゆらとする心地よさに、ただひたすらに和紙をくしゃくしゃとしては心がほどかれていく感覚に、確かな豊かさを見つけることができるから。影を重ねるだけで、今ではないいつか/ここではないどこかの誰かとダンスをすることだってできるからだ。

誰かになにかを伝えるとき、わたしはいつもそのこぼれ落ちるなにかを気にしてしまう。けど、どれだけ自分の言葉を信用できなくても、たとえうまく喋れなくても、他者と共有できる言葉があるなら、まずそのよろこびに存分に体を任せてみようと思えた。だって、たとえ微かでも体を動かせることのよろこびが、ごく単純な仕掛けやアプローチやなんでもない方法の数々として翻訳された新井さんの豊かな「ことば」を、こんなにも受け取ってしまったから。それは、まるで幼心に分厚い辞書をプレゼントしてもらった記憶とも重なる。そんな気持ちを思い出せる展覧会だった。

会場を覆う大きなビニールの皮膜を、「自身のダンスの先生だ」と言う新井さんのキャプションで本展は締め括られる。「このからだ」に声があるように、水や光や空気にも声がある。来場者の息遣いや、会場を進む足どりと呼応するようにはためくそれを、いつまでも眺めていた。

翻訳できないわたしの言葉

[会場] 東京都現代美術館 企画展示室1F
[会期] 2024年4月18日(木)~7月7日(日)
[休館日] 月曜日(4月29日、5月6日は開館)、4月30日、5月7日
[開館時間] 10:00-18:00(入場は17:30まで)
[観覧料] 一般1,400 円(1,120円) / 大学生・専門学校生・65 歳以上1,000円(800円) / 中高生600円(480円) / 小学生以下無料
[主催] 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美館
[出展作家] ユニ・ホン・シャープ、マユンキキ、南雲麻衣、新井英夫、金仁淑


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