好奇心と抽象化

最近、「疲れちゃったなー」って思うと
大きい眼鏡で自分を癒すことが多くて、

大きい眼鏡っていうのは、たとえば
私を守ってくれる上司はもっと大きな敵と戦ってたり
(別に敵じゃないんだけど、戦ってる)

疲れて何にもできなくてお家帰っても、
美味しいご飯を作ってくれてたりする環境だったり
(多分みんな絶対疲れてるのに)

見るところをちょっと広げると、
自分の疲労とか苦労がいかに小さくてまだまだなのか
めっちゃ感じるってことで

誰かにきつく当たられたり、ないがしろにされた時には
その人の限界と戦ってる瞬間だったんだなーって
思うようになって

そうやってみるようになると、今度は
この人はどんな人なんだろうって考えることが
極端に減ってしまって

もっとこの人のことを知りたいって思う
感情というか好奇心が働く機会が、
あんまりなくなって

つまらなくなった、

別に知れたから得するとか
そうゆう訳でも、この人のこと好きだなあとか
なる訳でもないんだけど、

ただ、

好奇心を使う機会が減っていって、なんか
機械的な自分の生活が
変に便利になったなーって思ってしまった。

便利だと心が減ることとか無くなったけど、
ときめき(知らなかったことを知る的な)の純度が
さがったように感じて

生きてるというか、
毎日を過ごすための術みたいな過ごし方が
すごくなんとも言えない、

気づいたら、なににも感動しなくなって
なんにも欲しなくなって
全て運任せみたいな感じになってるのかな

もうちょっと、何かこう
貪欲にあるがままでいられるように

抗わないと、もっと自分が
なんにもない、
何者でもない、通行人になってしまうような
気がする

別に通行人でもいいんだけど、
信号渡る時に手を挙げて渡るみたいな
癖のある通行人がいいな、

明日はちゃんと大きな声でおはようって挨拶しよう、

ラーメン食べて眠る、

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